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連載昭和事件史

3人の若者を犠牲にした戦争神話から「命を捨てて国に尽くす」時代が始まった

“軍国美談”はなぜ生まれてしまったのか #2

2020/03/01
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「3人は内田伍長に殺されたようなものです」

北川丞一等兵

 戦後、アメリカに接収・返還され、現在東京・国立公文書館に保存されている旧内務省文書の中に「『爆弾三勇士』のほんとのこと」という手書きの文書がある。「久留米工兵隊の一兵卒」が「あの時、北川等と一緒に行った兵卒から聞いたことだから間違ひはありません」として次のように述べている。

「軍隊の導火線は完全なので、途中で火の消えるようなことはないから長くしてよいのだが、内田伍長は30センチばかり短く切ったそうです。これでは重い破壊筒を33メートルも持って行ったら、逃げて帰る時間があるかどうかわからないのだが、それでも急いで走って行って、素早く帰って来る予定だったそうです。

 ところが、3人が出かけて15メートルも行ったころ、つまずいたか弾丸にあたったかして1人が倒れ、それで3人が皆倒れたそうです」「そのまま逃げて帰りかけたら、内田伍長は『なんだ! 天皇のためだ、国の為だ、行け!』と大声でどなりつけたので、3人は又引かえして、破壊筒をかかえて進んで、鉄条網へ着いたか着かぬに爆発したのだそうです。3人は内田伍長に殺されたようなものです」。

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 文書は途中で切れており、誰がいつどんな形で発言したかは不明だが、内務省が記録として保管していたということは、発言が与える影響を考慮したからだろう。

根強い「導火線が短かったから爆死した」という説

 この説を補強する証言も(数字は違うが)ある。「上海事変は自分の謀略工作で始まった」と認めた田中隆吉・元陸軍少将は、1965年1月放送の東京12チャンネル 報道部「証言私の昭和史」で、爆弾三勇士についてこう語っている。

「命令した上官がですな、爆薬の導火線の火縄を1メートルにしておけば、あの鉄条網を爆破して安全に帰ることができたんです。それが誤って50センチ。半分にしてしまったんです」「事故です。上官の過ちです」。

 田中元少将は事変当時、上海公使館付陸軍武官補佐官の少佐。「『満州国』建国の動きを注視する各国の目をそらすため、板垣征四郎・関東軍参謀から依頼され、川島芳子に金を渡して日本人僧侶を殺傷させた」と戦後、雑誌で暴露した。多くの謀略工作に関わり、東京裁判では検察側に協力。東条英機元首相ら日本人A級戦犯に不利な証言をしたことで知られ、「怪物」と呼ばれた。

「導火線が短かったから爆死した」という説は、説明がつきやすいためか、最近に至るまで根強く残っている。鷹橋信夫「昭和世相流行語辞典」(1986年)は田中元少将の証言を引用して「忠勇無双の軍国美談も、一皮むけば人命軽視のあえない事故であった」と記述。

 2006年出版の古賀牧人編著「近代日本戦争史事典」も「導火線を他の班のように1メートルにしておけば、鉄条網を爆破して安全に帰ることができたが、誤って50センチにしてしまった」と書いている。