文春オンライン

連載昭和事件史

3人の若者を犠牲にした戦争神話から「命を捨てて国に尽くす」時代が始まった

“軍国美談”はなぜ生まれてしまったのか #2

2020/03/01
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3人の行為を「普段の訓練のたまもの」

 3月2日付東朝朝刊は、爆弾三勇士と同時に廟行鎮で鉄条網破壊作業中に戦死した久留米工兵隊の一等兵2人の実家を訪問。遺族の言葉を伝えている。記事には他に戦死した3人を加えた5人の遺影を載せ「爆弾五勇士」と表現している。「英雄」を3人だけに絞ることへの違和感や抵抗は当時からあったようだ。

 さらに、3人の行為を「普段の訓練のたまもの」とし、5人と合わせた「八勇士」との見方を挙げ、「小隊長以下36名の団結力の結晶」と強調している。「3人だけが英雄なのではない」という考えは工兵第十八大隊関係者らの間でも根強く、銅像建立をめぐる動きもこのことと関連していたと思われる。

破壊筒を抱えて鉄条網に突進する演習

 三勇士の遺族も東京朝日に寄せられた弔慰金計3万円(2917年換算で約6400万円)の一部を「五勇士その他、久留米十二師団の戦死者遺族に贈りたい」と申し出て了承されたことが3月8日と9日付の東朝朝刊に出ている。

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薄められた「突撃が命令によるものだった」という認識

 それ以上に大きな問題は、やはり「自ら死を志願した」かどうかではないか。

 第一報と一部の出版物を除いて、それを肯定する資料はない。しかし、例えば与謝野鉄幹は、東日・大毎の公募で入選した「爆弾三勇士」の歌詞を後で一部修正している。3番に「答えて『はい』と、工兵の 作江、北川、江下ら」とあったのを、「中にも進む一組の 江下、北川、作江たち」と差し替え。「より完全なものに」という本人から申し込みがあったと3月20日付東日朝刊にはあるが、突撃が命令によるものだったというニュアンスを薄めるための修正だったことは明らかだ。

 これに対し、「爆弾三勇士の真相と其観察」は「上大元帥陛下より下一兵に至るまでの統帥権確立せる帝国軍隊においては、部下の行動はこれ上官の命令指示に基づくものである。しかるに、三勇士の行動を彼ら互いに相談のうえ、決行したるがごとく伝うるは光輝ある帝国軍隊の成立を誤伝するものとみられる」と、「軍人勅諭」を持ち出して「三勇士神話」に疑問を投げ掛ける。

「出征した軍隊はこれことごとく決死隊である。なんぞその上に決死者を募る必要があろうか」「危険の任務に当たるに際し、一々志願を求めなければこれに当たる者がないようになったらば、国軍の破滅が近くなった秋(とき)ではあるまいか」と強調した。