「生きて平等に手柄を立てさせたいと思ってのことだった」
当初の三勇士報道について、戦後、占領軍の強い指導で戦前戦中の軍国主義を批判し続けた「雑誌真相」の「特集版第4巻」も書いている。
それによれば、当時上海に送り込まれた内外の新聞特派員たちは、取材活動に当たっていたものの、海軍陸戦隊の武勲、美談に対し、陸軍は戦線が入り乱れて司令部にも的確な情報が入らなかった。「2月22日の夜、虹口の日本人クラブで飯を食っていた当時東朝上海支局長太田宇之助、東日支局長吉岡文六らは、前線から帰った将校の口から『今朝廟行鎮で3人の工兵が爆弾を抱いて鉄条網に飛び込み、突撃路を作った』という話を聞いた」。
現場は激戦地で簡単に取材には行けない。
「そこで東朝も東日も、ただ『爆弾を抱いて自爆した』との類例のない凄惨な死に方に興奮してしまい、23日、とにかく第一報を東京本社に送った。何しろ各社が特ダネ競争の最中であり、爆弾の形も突撃した状況も分からないまま」「壮烈な自爆物語を作り上げたのである」という。
「これを見た東京本社側でもことあれかしと待っていただけに、この陸軍部隊最初のビッグニュースに文句なしに飛びつき、紙面へデカデカと載せる一方、現地支局へ『ただちに詳報を送れ』と矢継ぎ早に電報を送った」。相当荒っぽい報道だったようだ。
そうした経緯を見ると、軍部も新聞も、国民の関心がそれほどまで熱を帯びると予測、計算していたとは思えない。「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説」での著者のインタビューに、小隊長だった東島元少尉は、三勇士らを鉄条網破壊の決死隊に選んだことについて「殺そうと思ってではない。生きて平等に手柄を立てさせたいと思ってのことだった」と答えている。
「自分たちと同じ庶民の一兵卒がそんなことをするとは!」
いまの私たちは、その後、太平洋戦争末期の特攻隊など、同様の行為が多くあったことを知っている。しかし、1932年の時点では、「自爆」はまだ目新しく、十分に衝撃的だった。戦場であっても人間的なつながりと最低限の合理性が息づいていた。当初新聞がセンセーショナルに書き立てたのも、「特別扱い」したわけではなく、記者や編集者の単純な驚きと興奮が、情報不足と重なったためではなかったか。
そこには、3人の個人的な事情も加わっていた。
家は貧しく学歴もなく、入隊前は肉体労働者で、江下と北川は父と死別。作江の父には障害があったという。彼らが軍隊に入る前、どんな生活をしていたかは容易に想像できる。国民が報道を熱気を持って受け止め、反応したのは、エリートの職業軍人ではなく「自分たちと同じ庶民の一兵卒がそんなことをするとは!」という「ショック」と「興奮」からだろう。
東京と地方という問題もある。当時、東京など大都会は新しい都市文化が拡大。「エロ・グロ・ナンセンス」の風潮が残っていた。対して農村では、不況に加えて凶作、都会への人口流出、娘の身売りなど、暗い話題がほとんど。そんなときに現れた三勇士は、地方の人々にとってわずかな希望だったに違いない。