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破壊筒をその場に放棄して引き返すことは不可能だったのか

作江伊之助

 興味深い点がある。久留米の銅像建立の中心となった「国防義会」が1933年に出版した「爆弾三勇士」には、「(内田)班長は自ら点火してやった後、壕を飛び出して一散に前進せしめるとともに、自分も両組の中間にあって前進した」と書かれている。北川一等兵が倒れると、「内田伍長はこれを見て『倒れちゃいかん』と叫んだ」とも。

 教育総監部がまとめた「満州事変忠勇美譚」の「責任観念之部」での三勇士の項では、重傷を負った作江一等兵に内田伍長は「よくやった。遺言はないか」と聞き、作江は「何もありません」と答えている。2冊の書には、現場の鉄条網とそこに突撃する工兵らの位置関係を示す同じ図が掲載されている。それを見ると、内田伍長は3人を送り出しながら、自分も後を追って出発地点から鉄条網まで約40メートルの中間付近まで進んでいたことが分かる。 

正史である参謀本部の「満州事変史」も「第一組は点火して突進したれど、第二組は容易に果たさざりしをもって班長(内田伍長)自ら点火してこれと同行す」と明記している。

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 畑中敏之「『爆弾三勇士』をめぐる風評と部落問題」(「身分を越える―差別・アイデンティティの歴史的研究」所収)は、これについて「(内田伍長は)彼らの近くを併走しながら命令を与えていたことが分かる。北川が倒れた際にも、内田班長の突撃の命令が繰り返されていたであろうことは十分に予想される。そのような状況下にあって、破壊筒をその場に放棄して引き返すことは、彼ら『三勇士』が選ぶことのできる選択肢の中にはなかったのではないだろうか」と推測する。

 納得できる指摘だろう。実際に戦場で起きていたのはそういうことだったのではないか。

陸軍兵士の軍国美談を求めていた国民

 それにしても、どうしてあれほどのブームになったのだろうか。

「上海事変は柳条湖事件から『満洲国』建国に至る一連の展開とは別の、それに対する『煙幕』の役割を果たすことを期待されたにすぎない、目的も限定された戦争であったが、しかし、その規模や激しさは、満州での散発的な戦闘をはるかにしのぐものであった。従って、国民に流される戦闘に関するニュースの量も圧倒的であった。新聞は上海市街戦に関する写真のページを作り上げたし、新聞社の主催するニュース映画の会は満員の盛況となった」「(上海事変は)国民を戦争に馴致するうえでは大きな画期をつくることになった」(古屋哲夫「日中戦争」)。

 3月には東朝朝刊には「国防費の献金 百万円突破」という囲み記事が載っている。2017年換算で約21億6400万円に上る。

 多くの国民は、三勇士の「神話」を通して、満州事変ではほとんど見られなかった中国軍の激しい抵抗と、それによる日本軍の死傷者の続出に「これが本当の戦争か」と目を見開かされたのではないか。当初の上海事変の戦闘は陸戦隊など海軍の活躍が華々しく、増派された陸軍の側に焦りがあったことは否めない。陸軍兵士の軍国美談を求める素地は出来上がっていたといえる。

 慶應義塾大学法学部政治学科玉井清研究室「近代日本政治資料集(18) 第一次上海事変と日本のマスメディア」は「三勇士美談の形成は、第一報の時点での軍の特別扱いから始まり、それに呼応した各地の国民の熱狂に対して新聞(の報道)がそれを加熱するような形で行われたことが明らかになった」と指摘している。