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鉄条網に向かって飛び込んで……

「廟行鎮の敵の防御陣地には鉄条網を頑丈に張り巡らし、塹壕深く後に控えて、さすがのわが軍もその突破に悩んでいた際、わが〇兵隊の〇兵三名は、鉄条網を破壊して敵陣の一角を突き崩すため、自ら爆死して皇軍のため、御国のために報ずべく、自ら死を志願し出たので、〇兵隊長もその悲壮なる決心を涙ながらに『では、国のために死んでくれ』と許したので、右三人は今生の別れを隊長はじめ戦友らに告げ、身体いっぱいに爆弾を巻き付けて、帝国万歳を叫びつつ飛び出して行き、鉄条網に向かって飛び込んで真に壮烈無比なる戦死を遂げた。

 これがため、鉄条網は破れ、大きな穴ができ、敵の陣地の一部が破れ、これによってわが軍はここより敵陣に突入するを得、廟行鎮に攻め寄せて、まんまとその翌朝、陥れることができた……」。これが「爆弾三勇士神話」の中核部分だ。

※写真はイメージです ©iStock.com

 この段階の記事は誤りが多い。「自己の身体に点火せる爆弾を結びつけ」とあるが、実際は、爆弾を棒状につないで青竹で巻いた長さ約4.5メートルの急造「破壊筒」(「爆薬筒」と書いた新聞もある)を兵士3人が脇に抱えて突進。鉄条網に差し込み、点火して帰還するのが本来の任務だった。「肉一片を留めず」も“ウソ”だったのは、作江一等兵が爆発直後に上官の班長と会話したとされ、「遺体の一部発見」がニュースになったことから分かる。

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「自ら死を志願」の点が最も重大だが、事実は違っていた可能性が強い。報道はストレートニュースで東朝・大朝、企画や事業では東日・大毎が先行。東京より大阪の方が“熱”が入っていた印象。3人は福岡県久留米市の陸軍第十二師団工兵隊の一等兵で、出身も佐賀と長崎だったためだろう。

日本軍参謀による謀略で始まったとされる上海事変

 上海事変は1932年1月28日~3月3日の短い戦争。きっかけは、1月に相次いだ中国人の抗日運動と日本人居留民との間の深刻な対立だった。居留民の突き上げで、駐留日本軍の主力だった海軍は抗日組織の解散などを要求。上海市長が受け入れようとしていた瀬戸際に日中両軍が武力衝突した。直接の端緒は日本軍参謀による謀略とされる。

荒木貞夫 ©文藝春秋

 黒羽清隆「日中15年戦争(上)」によると、中国軍の主体は国民党左派の「アイアンアーミー(鉄軍)」と呼ばれる第十九路軍の精強部隊で、日本軍は当初は海軍陸戦隊。「多数のクリークと、よくガードされ、よく隠された陣地とに守られた十九路軍は小銃・機関銃・野砲・迫撃砲を猛射し、頑強な抵抗戦を展開」した。「このため東京では、大角岑生海相から荒木貞夫陸相へ陸軍兵力の出動が要請され、2月5日、犬養毅内閣の閣議は陸軍の派兵を決めた」(同書)。その出動部隊の中に爆弾三勇士もいた。

 以後の状況を加藤秀俊「美談の原型 爆弾三勇士」(「昭和史の瞬間 上」所収)などから見よう。