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捕虜になるより死を選んだ空閑昇少佐

 上海事変はほかにも空閑昇少佐という「軍神」を生んだ。

 三勇士と同じ2月22日、大隊長として「江湾鎮付近の激戦において戦死を報ぜられた空閑少佐は、敵弾のため重傷を負い人事不省となり、支那軍に捕らわれの身となって南京に送られ治療中であったが、3月16日、上海に送還されてきた。然るに少佐はこれを武士の恥辱となし、28日午後2時15分、江湾鎮西北の、少佐が苦戦せし戦場に至り、ピストルをもって見事な自殺を遂げた。軍部では武人の亀鑑(手本)としてその死を非常に悼むとともに、29日夕、上海のわが軍司令部では一切の事情の発表を許した」(4月2日付東朝朝刊)。

 1941年に制定される「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」(「捕虜になるより死を」の意味)の先取りと言える。「戦争と映画」によれば、これをモチーフとして「嗚呼空閑少佐」(松竹蒲田、佐々木恒次郎・佐々木康監督)など5本が製作・公開されている。「これらの映画はいずれも1時間に満たない速成の添え物だが、どの映画館も『肉弾三勇士』か『空閑少佐』を上映しなければ客が寄り付かないというほどの吸引力があった」(同書)。

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浪曲、長唄、浄瑠璃まで…… 消費され続けた爆弾三勇士

 2月28日、東朝・大朝は朝刊で「肉弾三勇士の歌」を公募。3月15日付朝刊で、三勇士のうち2人を出した長崎県の長崎日日新聞記者・中野力を一等、2人を二等とした当選歌を発表した。

 応募総数も驚異的な数字となり、延べ12万4651通。一等は3月末、コロムビアレコードから発売された。東朝は「童謡肉弾三勇士」も募集。当選歌をレコード化した。

 さらに東日・大毎も2月29日付朝刊で「爆弾三勇士の歌」の懸賞を募集。こちらの応募総数は8万4177編。入選したのは著名な歌人・与謝野鉄幹(本名・寛)だった。「廟行鎮の敵の陣 我れの友隊すでに攻む 折から凍る二月(きさらぎ)の 二十二日の午前五時」を一節とする10節の歌詞。陸軍戸山学校軍楽隊が作曲。3月17日には大阪で発表演奏会が大々的に開かれた。ほかに国民新聞、報知新聞も募集し、4社競作となった。

 3月1日付大毎朝刊は、病気で入院中の歌舞伎俳優・六代目尾上菊五郎が爆弾三勇士に感激して劇化上演を発案。急遽台本が書かれ、3月の東京・歌舞伎座公演に「廟行鎮爆弾三勇士」として上演されることになったと報じている。菊五郎は「兵隊好き」で知られていた。

「爆弾三勇士」の舞台の六代目尾上菊五郎(「没後五十年六代目菊五郎展」パンフレットより)

 3月3日付東朝朝刊は「興行界を挙げて三勇士時代」の見出しで、各映画会社の製作進行状況のほか、歌舞伎座以外にも、新派が明治座公演で取り上げ、榎本健一が活躍していた浅草のレビュー劇団「カジノ・フォーリー」も演目に入れると伝えている。さらに浪曲、琵琶、文楽、長唄、浄瑠璃……。取り上げない芸能はないくらい、競って上演した。