上海事変が停戦しても熱狂し続けた国民
3月3日、国際的な反響を重視した昭和天皇の意向もあり、国際連盟総会開催に合わせて上海事変は停戦。2月9日に井上準之助・前蔵相、3月5日に団琢磨・三井合名理事長が暗殺され、いずれも「血盟団」による犯行と判明し、捜査が続いていた。3月7日には「昭和の35大事件」で取り上げた「玉ノ井バラバラ事件」で遺体の一部が発見され、世間は騒然としていたが、「三勇士フィーバー」は収まらなかった。3月9日付東朝夕刊は「勇士時代劇 爆煙にむせびつゝ 観衆『萬歳』絶叫 全興行界を席巻」と熱気を伝えている。
「『爆弾三勇士』劇は今や全国の演劇映画界を風靡している状態であるが、見物のこれに対する感激もほとんど狂熱的で、大劇場においては、三勇士に扮する役者のセリフや簡単な動作にまで万歳を送り」「最後の肉弾爆破のシーンでは舞台のおびただしい煙が密閉した劇場内に充満し」「昂奮した観客にとっては、これが一層実感をそそる結果となり、一同咳をしたり眼から涙を流したりしながら、なお満場総立ちとなって万歳を叫ぶ」。
菊五郎らの歌舞伎座公演では「はね時間には客待ちの円タク(料金1円均一のタクシー)自動車の行列が三原橋を越えて延々尾張町の交差点(現銀座5・6丁目)まで続いているというありさま」(同紙)だった。
3月9日付大毎朝刊は「爆弾三勇士を讃えて 『髪』や『お菓子』や『料理』も現れた」として「三勇士グッズ」を特集している。砲弾型容器に入った「肉弾キャラメル」や「肉弾三勇士せんべい」が売り出され、ハチクのタケノコとうま煮で破壊筒を抱える三勇士を表し、ゴボウと大根で鉄条網を表し、皮をむいたウドで砲弾を表すといった「爆弾三勇士」の盛り込み料理も考案された。
「日本人の精神を内に外に発揚したものとして賞賛にたえない」
加藤理「文化と教育による『同調』と『モデリング』―爆弾三勇士を事例に―」(「研究子どもの文化」第16号所収)によれば、三勇士を描いたメンコや三勇士のフィギュアのグリコのおまけもあった。ほかにも、爆弾三勇士の五月人形が東京・銀座松坂屋で売られ、「突撃! 突撃! キリンは絶えず進路を開く」と3人の兵士が瓶ビールを抱えて鉄条網に突進するキリンビールの新聞広告もあった。
そんな中で東日は三勇士の母親たちを招待。それぞれの母と兄が3月12日に上京している。
同紙3月13日付夕刊によれば、宮城を遥拝した後、明治神宮へ。「荒木陸相を官邸に訪問」「陸相は多忙の閣議から寸暇をさいて官邸に帰り、応接室で遺族と会見した」。「日本人の精神を内に外に発揚したものとして賞賛にたえない」などと述べ、「三勇士の母は涙ぐみ、幾度も幾度もお辞儀した」。母親たちは13日には青山斎場と築地本願寺で開かれた追悼会に出席するなど、手厚い歓迎を受けた。
さらに、東京と久留米などでは三勇士の銅像が建立されるなど、まさに3月17日東朝朝刊の見出しにあるように「肉弾三勇士時代」の大ブームとなった。
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