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連載昭和事件史

爆弾とともに突撃自爆! 残酷すぎる「肉弾三勇士」に人々は熱狂した

“軍国美談”はなぜ生まれてしまったのか #1

2020/03/01
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導火線に火をつけてから突進する「強行破壊」だった

 十二師団の一部は混成第二十四旅団に編成され、9月7日に上海上陸。同旅団の歩兵二十四連隊第二大隊は上海北郊の小村落・廟行鎮の防御線突破の任務を与えられた。「前面に高さ3メートルの鉄条網、次に幅4メートル、深さ2メートルのクリーク、その後ろに強力な機関銃隊を配置している」(同書)。ただ、3月1日付大毎朝刊と3月22日付東朝夕刊に載った現場写真を見ると、鉄条網の高さはせいぜい2メートルぐらいのようだ。

 鉄条網を破壊し突撃路を造ることが急務だったが、敵の抵抗が激しく、作業は難航。同大隊第三中隊に付いて破壊活動に従事していた工兵第十八大隊第二中隊(中隊長・松下環大尉)第二小隊(小隊長・東島時松少尉)も、煙幕を張るなどして猛烈な機関銃の砲火を避けながら鉄条網に近づこうとした。しかし、最初の3人ずつ3組のほとんどが戦死。そのため、あらかじめ導火線に火をつけてから突進する「強行破壊」に踏み切る。2組6人がその決死隊で、第1組が江下、作江、北川の3人。第2組も一等兵3人だった。

※写真はイメージです ©iStock.com

報道が過熱し、国民が熱狂していった

 ここから先は、上野英信「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説」に引用された松下大尉による「上海派遣久留米混成第二十四旅団工兵第二中隊戦史」の記述を借りる。「正史」である参謀本部編「満州事変史 第11輯 上海付近の会戦(上)陣地攻撃及追撃」もほぼこれに準じている。

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「予備班長内田(徳次)伍長は第一班の情況に鑑み、一度拠点を出発せんか、鉄条網にたどり着くことすら困難なる情況なるをもって、破壊筒を点火するの余裕なきを知り、直ちに両組に点火を命じ、出発せしむ。而して予備班の作江、江下、北川一等兵の第一組は直ちに点火し、弾丸雨飛の中を疾駆す。然るに中途にてまた先頭の北川一等兵傷つき、三名もはずみをくいて転倒し、空しく十数秒を経過したるため、導火線は燃え進み、時刻は刻々に迫る。然るにニ名はなお勇敢に起き上がり、鬼神のごとく再び燃ゆる破壊筒を抱き上げ、奮迅鉄条網に躍りかかりて挿入すれば、轟然一発、鉄条網は飛散せり。然れども、哀れ勇士もまた肉弾と化す」

 第一報以後、報道は連日熱を帯び、表現もエスカレートする。

「まさしく『軍神』―忠烈な肉弾三勇士 『天皇陛下の上聞に達したい』 陸軍省では最高の恩賞」が見出しの2月25日付大朝夕刊(24日発行)では、記者が3人の実家を訪問。「おかげさまでせがれがお役に立ちましたそうで……」という作江一等兵の父親の声などを紹介している。

 これに対する国民の熱狂的な反応はまず弔慰金として表れた。

 同じ紙面には、早々と大阪の男性が1000円を大朝に寄託したと報じている。2017年の貨幣価値に換算すると約215万円。福岡や小倉でも1000円を寄託する人が現れた。2月25日付東朝朝刊には軍の恤兵部(戦地の兵士に送る金銭や物品を扱う部署)に届いた「義金」が1日で約2500円(同約540万円)に上り、「個人宛ての恤兵金としては陸軍始まって以来空前のことだけに、当局もすっかり面くらい、かつ感激の涙を浮かべている」とある。

1932年2月25日東京朝日新聞

 東朝・大朝と東日・大毎なども弔慰金を募集。財閥の当主や資産家から小学生まで幅広い国民が応じ、東朝・大朝、東日・大毎のいずれも3月末の時点で総計4万円(2017年換算で約8600万円)を超した。