安倍晋三首相が自身のSNSアカウント上で公開した星野源の楽曲「うちで踊ろう」との"コラボ"動画が多くの批判を浴びている。批判の詳細はすでに多くの場所で論じられているのでそちらに譲るとして、本稿は少し違った観点からこの事件について考えてみたい。
安倍首相と言えばリオ五輪閉会式でのマリオのコスプレや桜を見る会でのインスタのストーリー機能の利用などで、一般的にはSNS戦略に長けていると理解されていた。だとしたら、なぜ今回に限って失敗してしまったのだろうか? この点を映画の画面分割という点から考えてみよう。
新型コロナ下でメジャーになった「画面分割」
安倍首相が公開した動画は、画面の左側に弾き語りをする星野源が配置され、右側には安倍首相本人が自宅でくつろぐ様子が映し出されている。こういった画面を分割してそれぞれ別のものを映す手法を画面分割という。
この技法は、ソーシャル・ディスタンシングが叫ばれるここ最近、必要に迫られてかよく見るようになったが、映画史の中ではかならずしもメジャーな手法ではない。その理由のひとつは、分割された二つの画面から作り出される意味が、手がかりなしでは伝わりにくいからだ。
映画史上で画面分割が使われた最初期の事例である『アメリカ消防夫の生活』(1903年)の冒頭場面を例に説明しよう。画面の右上丸枠の中に配置された女性が火事に見舞われ、後に画面の左側に配置された消防夫によって救出されることになる。だが、この二つの時空間の関係は不明瞭だ。
女性は消防夫の関係者なのかそれともただの他人なのか? この女性は昼寝をしている消防夫の夢に出てきているのか? それともこの二つの時空間の間にはまったくなんの関係もないのか? このように文脈が欠落していると、二つの並置された画面から導き出せる意味は非常に多義的なのである。
画面分割は現代の日本のテレビの中では「ワイプ」という形で頻繁に現れる。現代の視聴者はその意味を曖昧だと感じることはないが、それはスタジオと現場、再現映像とそれを見ているタレントというような形で、画面間の主従関係が提示され、解釈が枠づけられるからだ。このように、分割された画面構成それ自体の意味の曖昧さを、われわれは文脈に基づいて特定の解釈に引き寄せていくのだ。
では安倍首相が投稿した動画にはどのような意味の広がりの可能性があり、なぜその中から特定の解釈が選ばれたのだろうか?