イギリス人の驚くべきNHS愛
ジョンソン首相は「私たちのNHS(our NHS)」という言い方をした。このourに込められた意味は、イギリスの歴史を少し長めにふり返っていかないと理解できない。これを理解するのにお勧めしたいドキュメンタリー映画に、ケン・ローチ監督の『1945年の精神』(2013年)がある。この映画は、NHS誕生の瞬間を、そこに込められた切々とした願望とともに描き出している。
NHSを導入したのは、1945年に成立した、初の労働党単独政権(クレメント・アトリー政権)である。1942年に発表され、政府の報告書としては異例のベストセラーともなった通称「ベヴァリッジ報告書」(正式名称は「社会保険と関連サーヴィス」)に基づき、同政権の保健大臣アナイリン・ベヴァンの尽力によって導入された。
NHSは、保険料ではなく税金を財源として、国民全員に無料の医療を提供する制度である。『1945年の精神』では、30年代まで、とりわけ貧困層や労働者階級には手の届かなかった医療が万人のものとなった瞬間の感動が語られている。NHSは福祉国家としてのイギリスの最も大きな柱であり、それは45年の労働党政権を支持した人びとの宿願でもあったのだ。
NHSはオリンピック開会式にまで登場
NHSがイギリス国民の文化的な記憶や誇りの重要な対象であることは、たとえば2012年ロンドン・オリンピックの開会式を見ても分かる。開会式では、産業革命以前から現在までの歴史を経巡るパジェント(歴史野外劇)が上演された。その第2部の冒頭では、NHSの看護師と患者に扮した演者たち、病院のベッドの上で踊る子供たちが入場した。これはNHSが象徴する戦後福祉サーヴィスを称賛するものだったのだ。
現在でも、さまざまな変化にさらされてきたとはいえ、NHSは健在である。ちなみにNHSが対象とする「国民」とは、基本的に住人のことであって、イギリスのパスポートを持っている必要はない。私も数年前にイギリスで在外研究をした際にはNHSに登録された。幸い利用する機会はなかったが、医療を受けたとしてもすべて無料だったわけだ。
ところが、そのNHSを中心とするイギリスの福祉サーヴィスも、変化との戦いを強いられてきた。もっとも大きな転換点となったのが、ジョンソン首相が引用したマーガレット・サッチャーである。