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 冒頭のジョンソン首相の「社会というものはある」というのは、1987年にサッチャーが雑誌『ウーマンズ・オウン』のインタビューで述べた、「社会なんてありません」のもじりである。

 社会がないというのは、個人と自由市場の間に入って個人を守ってくれる中間的なものは存在しないということであり、個人は「自由な」市場の中で競争をして勝ち残っていかなければならないということだ。このフレーズはサッチャーの新自由主義宣言としてくり返し参照されてきたものである。

マーガレット・サッチャー ©getty

 そのサッチャーは、それまで国家が運営してきたさまざまなものを「市場化」したのだが、NHSもその対象となった。無料の医療の対象を狭めていったことに加え、地域の保健局が個々の病院から医療を「購入」する「内部市場」と呼ばれるものが導入された。

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 これは少々複雑な話になるので、より詳しくは参考文献に挙げた秦の論文(「ブリタニア病院を立て直せるか」)を参照していただきたいが、要するにそれまで国家が丸抱えであったところに、市場的な競争の原理を導入したのである。

 そのようなサッチャーの標語「社会なんてありません」をジョンソン首相が「社会というものはある」ともじったとき、そのとりあえずの意味は明白だ。サッチャーのようにNHSを破壊して、それを市場競争原理で運営することでやせ細らせてはならない。そのことを、今回の新型コロナ危機は明らかにしたし、ジョンソン首相もNHSのおかげで一命をとりとめた。それをジョンソンは、イギリス人の骨の髄に染みこんだ「NHS愛」に訴えながら表現したのだ。

2010年代、保守党の改革で受診待ちの患者が急増

 しかし、私自身、そしておそらくイギリス人の多くがジョンソン首相の発言に対して感じたことを一言で言えば(ちょっと口汚くて申し訳ないが)、「どの口が言うか」だったろう。というのも、とりわけ2010年代に、NHSを含む福祉をさらに削減し続けたのは、保守党(キャメロン首相)と自由党の連立政権だった。この間の福祉カットの政策は「緊縮(政策)(austerity)」と呼ばれる。

 たとえば、NHSへの資金カットにより、かつての労働党政権のあいだに減少していたNHS受診の順番待ちの人数は、2010年代の保守党政権のあいだに労働党政権前の水準まで再上昇している。