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「ボーク」打ち直しで同点弾

 巨人はフリーエージェント(FA)制度が導入された1990年代に落合博満、広沢克己、清原らを獲得し、常に強力打線を看板にしてきた。ただ1998年は特別な年だった。松井氏が「唯一ライバルとして意識した」という高橋由伸の入団である。

 慶応大からドラフト1位で入団した高橋は、初球からフルスイングする積極打法で1年目に打率3割、19本塁打。1998年に初の本塁打王となった松井とともに、その後の巨人の核となった。その高橋が横浜に強烈な一撃を加えた。

高橋由伸監督時代には、キャンプを訪れた松井氏と談笑するシーンも ©文藝春秋

 8回、松井、清原の連打で1死一、二塁だった。高橋は右越えに勝ち越しの3点本塁打を打ち込んだ。一塁に向かいながら叫び声を上げ、両こぶしを握って「プロでは初めて」というガッツポーズをつくった。松井氏が「(高橋)ヨシノブの3ランで、ほとんどの選手は勝てると思ったのではないか」と語る一打だった。

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“おまけ”の打席でホームラン

 だが、これがとどめにはならなかった。8回裏、横浜は巨人の抑え槙原寛己に対し、1死から鈴木尚の二塁打とボビー・ローズの中前打ですぐに1点を返した。その後2死一塁となり、佐伯は2球目を打って右飛に。反撃はここまでと思われた。

佐伯貴弘は、主にマシンガン打線の6番を任されていた ©文藝春秋

 マウンドを降りかけた槙原の足を止めたのは、審判員の「ボーク」のコールだった。2死二塁となり、佐伯が再び打席に入る。サービス精神旺盛で、ファンにはお調子者のイメージがあったが、山下氏は「佐伯はああいう場面でわりと冷静になれる選手だった。それが勝負強さにつながっていた」と語る。“おまけ”の打席で球を見極め、フルカウントからのフォークボールを右翼席にたたき込んだ。一塁ベンチのチームメートに顔を向けて飛び跳ねる佐伯の姿に、スタジアムは最高潮に達した。12-12だ。

 松井氏は「タラレバになってしまうが」と前置きして続ける。

「あそこがゼロならば、すんなり終わっていた。(あの場面で)ホームランが出るのはすごい」

貯金ゼロからの尋常じゃない盛り返し

 横浜の神がかった勢いは、試合前からあったと言ってもいい。7月12日に帯広で行われた中日戦では、9回に6点差を追いつき、延長12回、日没コールドゲーム引き分け。移動日を挟んで14日は、巨人に8-7でサヨナラ勝ち。そして迎えたのがこの一戦だった。

 実は5月後半に勢いを失いかけていた。山下氏は「5月だというのに早くもゴールを意識してベイスターズらしくない戦いぶりになっていた」と話す。貯金が底をつき始めた6月2日からの巨人戦で「一度貯金をチャラにするくらいの気持ちで、一からやろう」と選手に話したという。6月7日に貯金ゼロとなったが、そこからの盛り返し方が尋常ではなかった。

古巣の横浜スタジアムで始球式を行った山下大輔氏