ポピュリストとしての小池から抜け落ちるもの
2016年に無所属で単身都知事選に乗り込み、予想外の大勝を得た小池は、日本のポピュリストの一人に数えられている。ポピュリストとは、社会を「エリート対非エリート」に分け、非エリートがカリスマ的リーダーを支持し実権を与えるというポピュリズムにもとづくもの。
このポピュリズムという動きの特徴は、既存の利権構造から脱却し、様々な社会的閉塞を打ち破る可能性を感じさせる政治家が選ばれる点だ。分かりやすいのが小泉純一郎で、「自民党をぶっ壊す」というスローガンは、1990年代の政界大混乱の果てに何も変わっていないと感じた多くの有権者の気持ちを捉えた。
この意味で、2011年東日本大震災を経験し、好景気が謳われながらも実感できない多くの庶民が抱える不満に対して、何かを変える期待を小池はもたせたのだろう。
しかし、それだけでは小池という存在の持つ意味は解明できない。ポピュリズム論を始め多くの小池分析が見逃しているのがジェンダーの問題である。
なぜ若者や女性は小池を支持したか
都知事選の分析を見ると、小池を支持した有権者は若い世代と女性に多い。小池は女性や若い世代にアピールしたのである。しかし、小池はマッチョな自民党に所属していたように決してフェミニストではない。女性政策に強いわけでも功績があるわけでもない。これはどういうことだろうか。
これを解明するのがポストフェミニズムという現象である。これは2000年代から世界的に顕著になった傾向で、フェミニズムは終わったという気分や語りが社会に蔓延している状況のことである。
フェミニズム運動は、世界各国で1970年代から80年代に盛り上がった。第2次大戦後、多くの国で女性の参政権など法的な権利が認められ、経済的にも力をつけていったが、それにもかかわらず変わらない女性への差別に怒り、立ち上がったのである。日本では「ウーマンリブ」と呼ばれた。
その後、この第2波フェミニズムを受けてどの程度変わったかは国や地域によるが、多くの国で、フェミニズムに対する反発が吹き出る「バックラッシュ」の時代を迎える。保守的な団体や政治家が、フェミニズムをバッシングした。
さらにこのバックラッシュを経て、より広い層に、「フェミニズムは必要ない」という気分が広がっていく。「昔フェミニズムが盛り上がったけれど、もう女性は解放された」と考える人が増えたのだ。
とくに若い女性に、フェミニズムを過去の遺物として否定的に捉える者が増える。これがポストフェミニズムの意識である。