まさに命をつなぐ1本の蜘蛛の糸が
満足に息継ぎもできず、そんな諦めの境地になり始めた時、左の手首に激痛が走った。つかまるものが何もないと思っていた沖に、カラスガイがびっしりと付着した係留ロープがあったのだ。
「助かるかも!」
まさに命をつなぐ1本の蜘蛛の糸である。どうやってロープをたどって水面に這い上がったのか記憶していないが、そのロープに必死でしがみつき、なんとか息は確保することができた。
先生が操るサッパ船が近づいてきた。しかし、老人を船に引き上げるのはもちろん、僕が船に這い上がることも無理であった。幸いにもそのロープは、底に向かって垂直に伸びているのではなく、25mほど離れた岸壁に向かって海面に沿って横へ伸びている。片手で老人を抱きかかえながら、片手でロープを手繰る。かなり無理な体勢であったが、沈んでしまわないように先生が僕の首根っこをつかんでくれた。
こうしてなんとか岸壁までたどり着くことができたのだが、ここでまたもや緊急事態が発生した。老人も僕も、どうしても岸壁に這い上がることができないのである。
事件発生から40分が経過
「誰か近くの人を呼んで来るから」と先生は言うが、ぐったりとして動かない老人と海中に残される不安と恐怖には耐えられず、「先生、俺もう無理だから、ここで叫んで助けを呼ぶべし」とお願いした。しかし、ここは人けのない夜の岸壁である。叫べど叫べど助けは来ない。
それまですっかり気が動転していて気付かなかったが、携帯電話の存在を思い出し、先生に自転車の籠に携帯電話が置いてあることを告げ、警察と救急車の手配をしてもらった。とはいえ、救急車の到着を待つ間も、老人を抱え岸壁に片手でしがみつく体勢は続く。その間も助けを呼ぶ叫び声を絶やさなかった。すると、ようやく騒ぎを聞きつけた若者2人が駆けつけてくれた。その2人は先生とともに3人で力を合わせ、老人と僕を岸壁まで引き上げてくれたのである。事件発生から実に40分が経過した時のことだ。
ほっとしながら老人に目をやると、やはりその老人は僕らの後ろを通り過ぎていったお婆さんであった。意識のないその姿から、ダメだったかなぁと思っていると、遠くにパトカーと救急車のサイレンの音が聞こえた。と同時に、僕は激しい吐き気とともに意識を失った。