政晴さんは別荘があった辺りを見回し、「川沿いだね。警察が来たらバッと逃げられるところを、結構おじさんは選んでいるから。川の方にさっと逃げれば」とこぼした。
辻氏が逃亡を続けた約4年半の間、国内外では900人を超える日本の元軍人が戦犯として処刑された。
著書「ガダルカナル」で、辻はこう記している。
“私は追放の身であり、民族を悲劇的戦争に巻き込んだ大罪人であり、当然戦犯として絞首刑を受くべきでありながら逃避潜行した卑怯者である。その罪の万一をも償う道は、世界に先駆けて作られた戦争放棄の憲法を守り抜くために、貪ってきた余生を捧げる以外にはないと信じている”
戦犯解除、そして家族との再会
連合国軍はついに辻の戦犯指定解除を決定し、再び世に姿を現した辻氏の存在は、大ニュースとなった。1950年4月11日の毎日新聞朝刊には、こう書かれている。
“【問】今後何をするつもりか。
【答】追放の身が今更大きな顔をして新しい日本の表面に立つべきことでもなし。また、その資格もない。その意味で、また私はあなたたちの前から姿を消すであろう”
自宅へ戻った辻は、貧しい暮らしを耐え抜いた妻、そして5人の子どもと7年ぶりに再会した。
辻氏の次男、毅さんはそのときのことをこう語る。
「7歳のときに朝起きたら、隣に変なおじちゃんが寝ている。キャーッと飛び出した。それが父との初めての出会いでした」
一家団欒は手にしたものの、戦犯から逃れた男の家族には苦難が続いていた。
「学校の先生から、うちの姉たちもいじめられました。小学校時代に。『お前のお父さんはこんな悪いことをやった人間だ』と。先生からのいじめに遭いました」(毅さん)
辻の著書「潜行三千里」には、“罪なき妻や子に、後ろ指をささせるのはこの夫であり、この父である。ただ神に謝し、妻子に詫びた”とある。
それから辻氏は潜行中の記録をしるし、ベストセラー作家に。その知名度をひっさげて、
戦犯解除から2年、1952年に辻氏は地元・石川で衆議院議員選挙に出馬する。自分の国は自分で守るべきとして、アメリカに頼らない軍備が必要と訴えた。非難の声も上がる中、軍人時代の仲間も後押しし、当選を果たした。
国会議員になり、中立な国づくりを目指す
辻氏は何を思い、国会議員となったのか。
その事情を知るのは、藤力(ふじ・つとむ)さん。20代の頃、知り合いに頼まれて辻氏の議員秘書を務めていた。辻氏について、記憶に残っていることはあるのだろうか。
「いろいろと世間では批判も出ていましたが、昔の兵隊時代のことを私は知りません。戦後については、非常に国を思い、国を良くしようという熱意に燃えて、そのためにいろいろなことをおやりになった。だから、そういう仕事の面については、素晴らしいと思いますね」