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自らを「卑怯者」としながらも潜行し続けたのは?

 

豊岡の生活に別れを告げた辻氏は、親交のある仲間を頼って全国を回る。滞在先は、石川県の実家を含め10カ所以上。なりふり構わぬその足取りに、生きることへの執念がにじむ。

元帝京大学教授で歴史学者の戸部良一さんはその頃をこう分析する。

「辻さんという人は、若い時から戦場で危険なところにも自ら飛び込んで行った人なので、自分の命が助かる、それだけを望んでいたとは限らないだろうなと思います。あるいは、生きてもっと何かやるべきことがあると考えたのかもしれません。

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しかしそのためには、普通にやっていたのでは捕まって活動の停止を余儀なくされる。死刑にだってなりかねないですので、それから逃れようとしたのしょう。

辻さん個人としては、自分たちが戦った戦争を、なんらかの形で後世に伝えようと思ったんじゃないですかね。伝えるためには、自分が生きていかなくちゃいけないということなのかもしれませんが、命を助かりたいと思う気持ちと、何か伝えたいという気持ち、どちらが勝っていたのかはわからないです。両方あっただろうと思いますが…」

 

1年半余りに及ぶ国内潜行の果てに、辻氏は東京都奥多摩町旧古里村の別荘にひとり身を寄せた。

取材スタッフは辻氏のおい、辻政晴さんとその別荘を訪ねるため、「石材会社の近くだった」という口コミを頼りに、辺りを探していく。

タクシーの運転手や近隣住民に、別荘の写真を見せて話を聞いた。

すると、近隣の住民から「建物はもう壊しちゃったけど、この向こう。この向こうに橋がある。橋の左側。東京から宮大工が来て作った家だった。天井なんかすごいよ。この辺にはないような家だった。何年か前に壊しちゃったんだよな」と記憶をたどる。

取材スタッフが手にする本を指し「これ、辻政信の本?ここにいたらしいっちゅうことだけで見たこともないし、噂だからわからない」と話してくれた。

同じ都内の自宅までわずか数10キロだったが、捕まればすべてが終わる立場を辻氏は忘れていなかった。