国会議員となった辻氏は、各国の要人と会談。日本が二度と戦争に巻き込まれないようにと、中立な国づくりを目指した。
その背景には、第二次大戦後の世界を分断したアメリカと旧ソ連の対立があった。
「その頃、アメリカとロシア(旧ソ連・共産圏)との対立が非常に厳しい時代でした。だから何でもアメリカに追従して、アメリカと一緒にやるのではなくて、日本は日本の立場を守って中立で行かなきゃならんと、そういう思いが強かったんじゃないですか」(藤さん)
1958年、衆議院内閣委員会で辻氏は、「アメリカと運命を共にされるのか、それとも両陣営につかないでいこうとされるのか。あるいはソ連圏とも仲良くしようとされるのか。もう踏み切るときに来ておるのであります。曖昧な態度は許されません。あまりに甘すぎる、ものの見方が。世界情勢は厳しいのでございますよ」と物申している。
藤さんは辻氏が岸首相の退陣要求をしていたことにも触れ、「(辻は)気性も激しいし、自分の思ったことを推し進めていくというような感じだったんじゃないですかね」と話す。
1959年、所属していた自民党のトップを攻撃し、辻氏は除名処分になった。なおも軍備による自衛中立を訴えると、周囲から“第三次大戦を起こしかねない男”とささやかれる。
さらに、辻氏のもとには軍人時代の責任を問う声がいくつも寄せられ、アジア各国で起きた残虐な事件は辻氏が計画したとして、軍の元上官から告発された。
ラオスにて行方不明になるも、真相は謎のまま
1961年4月4日、無所属の参議院議員となった辻は、公務で40日間の東南アジア出張に出かけた。目的は、ベトナム戦争を食い止める和平工作とみられている。
東京を経って2週間余り。ラオスを訪れた辻氏は、僧侶に扮した姿で写真に収まった後、行方が分からなくなった。
そのラオスから、辻氏が秘書の藤氏に送ったはがきには、暗号のような言葉が並ぶ。
はがきには「何とかできる見込みです。まだ誰にもわかるまい。ご安心を乞う。留守宅の連絡を頼む。蘭を枯らさないように。池、伊藤さんによろしく」と書かれ、藤さんは「『池』というのは池田(勇人)総理大臣。その秘書が伊藤さんという人やった」と明かす。