『小説伊勢物語 業平』(髙樹のぶ子 著)日経BP/日本経済新聞出版本部

 昨夏芥川賞選考委員を退任した時、髙樹のぶ子さんは本作を新聞連載中だった。

「長い間、古典に対する憧れとリスペクトを持っていました。源氏物語に代表されるように、日本の文学は平安時代から、女性たちによって担われてきたという気がするからです。自分もいつかは、どうにかその流れに加わりたい、という憧れがありました。ただ芥川賞をいただいてから選考委員になるまでが17年間、選考委員を務めたのが18年間、なかなか集中して古典に取り組むことが出来ませんでした。はじめて手掛けたのは60代後半。古い時代からやろうと思い、平安初期の日本霊異記を絡めた謎解き現代小説(『明日香さんの霊異記』)を書きました。すると次には和歌の世界、そして伊勢物語という2つの大きな山が目の前にどかん、と横たわっていたのです。この山と格闘し自分なりの文体を編み出すのが最初の仕事でした」

 伊勢物語は全125章段、頻繁に登場する「男」は六歌仙の1人にして色好みの美男・在原業平と考えられる。10世紀半ばに成立した、作者・編者不詳の歌物語だ。「から衣きつつなれにしつましあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」という歌で知られる「東下り」の段をはじめ、広く人口に膾炙し、源氏物語など後世の物語文学に多大な影響を与え、数々の謡曲のもとにもなった。本作は、在原業平の生涯を、小説という形式によって描き出す。

ADVERTISEMENT

「業平について、史料として僅かにのこるのは、歴史書『日本三代実録』の数行だけ。ほかはもう、すべて伊勢物語の中にあります。章段がきっちり時系列に並んでいるわけではありません。まず、業平が詠んだと思われる歌をすべて抜き出し、歌にそって彼の人生を青春期から晩年まで辿り直しました。再構成した業平の生涯に当時の政治の動きなどを編み込んでいくのも大変な作業でした。歌に括弧つきの注釈をつけず、続く地の文を読めばわかっていけるよう、平安の“みやび”を壊さないような文体を創り出したつもりです。文体とは、音楽性と言いますか、わたくしはずっと朗読会をやっているのですが、古典というものは、音律でしか甦らないと思っています。古い言葉の意味を探究して取り出し、現代語に置き換えることは出来ます。それが現代語訳です。でも、古典を小説にする時は、あの時代の匂いを現代にたちのぼらせるには、絶対に音楽性が必要です。平安時代そのものを、音響的に、頭ではなく身体で、何度でも味わっていただけたら」

髙樹のぶ子さん 写真・富本真之

 母方の祖父は桓武天皇だが、父方の祖父が薬子の変で敗れた平城天皇だったため、業平は父・阿保親王の計らいで臣籍降下した。政治的には傍流に身を置きながら、歌の力で多くの女性、そして男性の心をも掴む。当時権力を一手に掌握しつつあった藤原北家の姫・高子(たかいこ)との関係が、全編の経糸になっている。壮年の業平と若い高子は激しく惹かれ合うが引き裂かれ、業平は東国に下る。ほどなく都に戻るが、清和天皇の妃となり東宮を産んだ高子が、今度は文化的パトロンとして、歌会を催し、業平を筆頭とする歌詠みたちを、唐由来の「真名(漢字)」ではなく、「仮名」の歌で、これからの「情け」の深い世を拓いてくれる人々、と力づける。

「高子は途中から人間としてすごく成長していきます。業平との恋は実らなかったけれど、歌の力を信じ、その後編纂される古今集の歌人たちを応援した。叶わぬ恋が日本の文化・文芸の礎をつくったのかもしれません。そのことはこの本の大きなテーマの一つでした」

たかぎのぶこ/1946年、山口県生まれ。84年「光抱く友よ」で芥川賞、95年『水脈』で女流文学賞、99年『透光の樹』で谷崎潤一郎賞、2010年「トモスイ」で川端康成文学賞。09年紫綬褒章受章。『オライオン飛行』『格闘』など著書多数。

小説伊勢物語 業平

髙樹 のぶ子

日本経済新聞出版

2020年5月12日 発売