ヤクザのトップがマスコミに登場した時代
山口組、一和会双方の親分が、直接テレビや雑誌のインタビューを受け、様々な質問に答えた。特に一和会は最高幹部のほとんどがテレビに出演し、ロングインタビューを行っている。一和会側の露出が多いのは、組を割って出た側には、繰り返し自身の正当性と大義名分を喧伝する必要もあったからだろう。それは私の実体験とも一致している。
1997年、新神戸オリエンタルホテルのティーラウンジで山口組宅見勝若頭ほか、無関係の一般市民を射殺、山口組を絶縁となり抗争事件となったとき、マスコミに登場したのは山口組を追われた中野会側である。2006年、福岡県久留米市の指定暴力団・道仁会が内部分裂した際も、取材に応じてくれたのは、組を割って出た九州誠道会側だ。
四代目山口組の一和会に対する激しい切り崩し工作に、一和会幹事長・佐々木将城は週刊誌のインタビューに応え、「度を超し、任俠道を頭から否定するもの」と嫌悪感を露わにしているほか、トップである山本広会長も、1984年9月27日号の『アサヒ芸能』でインタビューに応じている。
誌面上でもバトルが繰り広げられる
――田岡一雄組長は存命中、ことのほか竹中四代目をかわいがったと伝えられているが……。
「それはやなあ、あとからひっつけたもので……。まあ、ワシがいちばんオヤジとは近い存在にあったわけやから、そのへんの事情はだれよりもよう知っとるわ(中略)とにかく、ワシはバタバタしとうなかった。バタバタ慌ててな、見苦しいことをして内輪で抗争するようなバカげたことはしたくなかったわけや。だいいち、竹中四代目がどうあっても四代目にこだわるなら、ワシがそれに横ヤリを入れてもしようがないしな。だが、ハッキリいえるのは、アチラがワシらに対して、『代紋はずせ』とか、とやかくいう筋はないいうことやねん。そりゃまあ、さまざまのイキサツはあったけれども、竹中四代目サイドから『代紋おろせ』いわれる筋合いはないんや」
暴力事件と並行し、誌面でバトルが繰り広げられるのだから、これほどエキサイティングな興行はなかった。当人たちにとっては生死を懸けた生存競争でも、マスコミにとって暴力団抗争は紛れもなく見せ物だった。1989年、多大な犠牲を払って五代目体制が誕生してからというもの、山口組はマスコミをシャットアウトし、この掟を破った幹部や組員を徹底的に処分した。当初、北海道や九州にいた一部の大物は見逃されたが、通達を無視し、高をくくって週刊誌のインタビューに応じた傘下団体組長が厳しい処分を申し渡され、実質的な解散に追い込まれると、山口組組員の意識も次第に変わった。