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 それが年が明けた1995年冬、FMノースウェーブとタワーレコード札幌店のプッシュによりまず北海道でブレイク。以後、広島、九州、仙台……と地方から人気が広がっていった。2月にはオリコンで最高位となる7位に3週連続で入る。当初、売上目標を1万枚としていたが、結果的に日本のヒップホップ界では初のミリオンセラーとなった。途中2月にはROCK-Teeが方向性の違いにより脱退したものの、EAST END×YURIはその後も「MAICCA―まいっか―」(2月)、「いい感じ やな感じ」(4月)とシングルをあいついでリリース、6月21日には「DA.YO.NE」をはじめこれらヒット曲を収録したフルアルバム『denim-ed soul 2』も発売する。いまから25年前のきょうのことだ。

1995年2月にリリースされた「MAICCA―まいっか―」。オリコン週間3位になり、2作続けてのミリオンセラーとなった

「あの曲を越えるヒップホップ作品は、まだ我が国には存在していない」

「DA.YO.NE」は男女、それも恋人ではなく仲間同士での日常の何気ない会話を、日本語でラップに乗せたのが画期的だった。曲中に挟まれるセリフもすべて「ダヨネ」で返し、しかもそれぞれニュアンスが変わるところも面白い。この曲は音楽に造詣の深い人たちからも高く評価された。タモリは『笑っていいとも!』で、《ラジオで『DA.YO.NE』という曲を聴いたけど、あれいいよね。日本語への置き換え方が知的だ》というような言い方で褒めたという(※4)。ミュージシャンの近田春夫は、のち2003年の時点で《あの曲を越えるヒップホップ作品は、まだ我が国には存在していないともいえる。少なくとも中年以上の人が、ワンフレーズでもいいから口ずさめるアレ以外のものはないだろう》と書いた(※5)。それに続けての《あの曲の一番の価値は、日本語であることが、ちゃんとラップの面白さにつながっていた点である。語呂合わせ(ライミング)の都合で意味が判らなくなるようなこともなかったし、日本語の妙な便利さに対する批評的ともいえる構造も持っていた》との評は、自らもヒップホップバンド・ビブラストーンを率いた近田ならではであり、タモリの発言とも通じる。

1995年当時22歳だったYURIも一躍注目される存在に

 EAST ENDが所属した「FUNKY GRAMMAR UNIT」には、前出のRHYMESTERのほか、RIP SLYME、KICK THE CAN CREW、MELLOW YELLOWなどが集まり、「FG NIGHT」というクラブイベントを開催していた。RHYMESTERの宇多丸は、EAST ENDの「DA.YO.NE」によるブレイクを後年振り返って、《お客が全然いない中から一緒にやっていた仲間が、みるみる売れてしまっていったという。(中略)その現象の最初でしたね》と語っている(※4)。EAST END×YURIは、1995年暮れには、この曲をもってNHK紅白歌合戦にヒップホップグループでは初出場も果たした。

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「そやなー」「だべさー」「そーたい」

「DA.YO.NE」のヒットを受けて、各地方の方言バージョンも登場した。