「報告しました。他にもおかしな動きをしている中国漁船がいるらしく、1隻で対処しろとのことです」
「他にもか……。わかった」
にこりと岩本が頷くと、それまで緊張していた船橋の空気が少し柔らかくなった。
中国漁船への警告を準備
岩本は「なるほどな」と小声で呟いた。それは、勤務評定に書かれている小島と、自分が見てきた小島に大きな隔たりがあったからだ。勤務評定では非常に高く評価されているのだが、航海のない時の小島は、連日深夜まで酒ばかり飲んでおり、午前中はほぼ使いものにならないような人間なのである。だが、今は、中国漁船の動きに素早く反応し、テキパキと指示を出して、船長である自分への報告も完璧だ。これなら彼に任せておける。
巡視船の真正面には、水平線に沈む月があった。鏡のような海面に自らを映しながら沈んでいく月を、岩本は凝視していた。神々しい、と感じた。
「小島、月ってこんなに赤いんだな」
「はい」
酒と仕事以外に関心の薄い小島にとって、月はただのまぶしい物体だった。
「不思議に思わんか? 月自体は赤いのに、月の光は青いんだぞ」
「はい。船長、取り舵をとって、同航にします」
「うん」
岩本は、話に乗ってこない小島に苦笑した。そんな岩本にお構いなく、小島は先を見越した適切な指示を出していった。
「おい、5分後に右舷のライト・メール(注:電光掲示板のようなもの)で、『貴船は、日本の領海に向かっている。直ちに針路を変更せよ』と中国語で流すぞ。準備しておけ」
漁船からの“意外な応答”
巡視船「みずき」は、中国漁船2隻を右舷に見ながら同じ針路で30メートルの水空きを保ち、ライト・メールで針路変更を要求しながら追い越して行った。先頭の漁船を追い越し、2隻の漁船からライト・メールが見える位置につくと、速力を落として同速とした。
それから1分ほど過ぎた時だった。突然、船橋のVHF無線のスピーカーから流暢な英語が聞こえてきた。
「ジャパン・コースト・ガード、こちらは中国漁船。我々2隻は、現在操業をしていない。漁場を変更するため、一時的に日本の領海を横切る。無害通航権を行使する」
漁船からの応答とは思えない無線に、ついさっきまでテキパキと仕切っていた小島は驚き、固まってしまった。狼狽する小島の様子を見て、指揮下の者たちも固まった。その狼狽ぶりが伝染したのだ。
全員の様子を見ていた船長の岩本が指示した。
「応答しろ。『ディス・イズ・ジャパン・コースト・ガード、ラジャー・アウト』だ!」
岩本は、まだ固まっている小島に諭すように言った。
「立入検査は実施しない。寝ている者をわざわざ起こすことはない。漁具は甲板上になかったから、漁業準備行為もなかった。今の位置関係を維持して、領海外に出るまで併走する。ライト・メールを消せ」