先日、最終回を迎えた俳優・松尾諭さんによる“自伝風”エッセイ『拾われた男』。この度、書籍化されることになりました。第1回と第2回を特別に公開いたします。

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 二〇〇〇年二月。航空券の落とし主のモデル事務所社長と奇跡の初対面を果たし、プロダクションの意味を知ったかぶったまま、コーヒー一杯分の世間話は終わりが近づいた。今後どうするつもりですか、というふうな事を社長が聞くので、三月末に唯一受験可能な某劇団のオーディションが控えていると答えた。

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「そのオーディションの結果が出たら教えてくださいね」

 彼女はそう言って名刺をくれた。

「なんで演劇なんてするの。金にもならないし何もいいことないよ」

 生まれて初めてのオーディション。会場となる新宿村スタジオに着くと、整理券はイの一番だった。八人一組となり会場へと通されると、審査員席には見覚えのある顔が。あぶないコンビの刑事ドラマに出てた人だ、そうかあの人もこの劇団の人なんだ、あの人好きなんだよな、なんて思っていると、その方が開口一番、

「なんで演劇なんてするの。金にもならないし何もいいことないよ」

 とおっしゃった。夢を抱いてここに集まった金の卵たちに、このオヤジはなんてこと言いやがるんだ。こっちは必死で金貯めて、やっとの思いでこのオーディションに来てんだぞ、クソッタレ。そんな気持ちをなんとか顔に出すだけに留めた。

『拾われた男』(文藝春秋)

 彼らの挨拶と説明を経て、イの一番の出番となった。山だか海だかに何かがどうしたとかこうしたとかを、どうこうして表現してください、といった課題だったように思う。初めて人前で「表現」をするのに、メソッドも何もあったもんではなく、あるのはともかく思い切り。無闇に大きな声と大きな動きで「何か」を表現した、ように思う。当時の記憶はほぼどこかへ飛んで行ってしまったけれど、スタジオを出た時、それまでの人生で感じたことのない達成感があった。それはよく憶えている。

 二週間後、劇団から合否の通知が、思ったよりも簡素な封筒で届いた。結果は不合格。ちくしょうあのオヤジ並びに劇団員のあの名優にあの名優め。あんたたちに師事すると夢見たこの二週間を返せ。そんなぶつけようのない怒りはアルコールできれいさっぱり洗い落とし、翌日、くだんのモデル事務所社長に不合格の旨を伝えると、事務所に来いとの事。

 北青山の年季の入った雑居ビルの一室の、こぢんまりとしたオフィスには女性四名がデスクに着いており、あまり状況が把握できないままに自己紹介する関西弁の男を見る彼女たちの眼は、牛乳を拭いて洗わずに放置されたままのボロ雑巾を見るかのようであった。