新宿歌舞伎町の通称“ヤクザマンション”に事務所を構え、長年ヤクザと向き合ってきたからこそ書ける「暴力団の実像」とは―― 著作「潜入ルポ ヤクザの修羅場」(文春新書)から一部を抜粋する。

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私を溺愛した加納

 加納貢は1926年、某銀行の創始者の長男として生まれた。かなりの資産家の息子で、実家は渋谷区初台(はつだい)周辺の地主でもあった。現在、新宿の東京モード学園が建っている土地も、もともとは加納家の所有である。後でわかったことだが、無一文になってからも新宿区内に土地を持っていた。どこからかぎつけたのか、死後、まったく面識がなかった編集ゴロが、加納の追悼会をやろうと言い出した。明らかに遺産目当てだ。馬鹿らしいのでその手の催しには一切参加しなかった。おそらくその土地は遺族に相続されたと思う。加納の周りは詐欺師ばっかりだったから、誰かがかすめ取ったかもしれない。

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 少年兵として敗戦を迎え、加納は不良少年として下北沢で遊びはじめた。暴力社会にデビューしたのはこの頃である。専修大学に通っていたから、インテリヤクザの走りだろう。当時の仲間の一人が安藤昇だった。

事業の失敗を重ね続けた

 安藤は渋谷に、加納は新宿に進出した。安藤は東興業を作って、暴力社会の寵児となった。金持ちのお坊ちゃんである加納には、これで飯を食っていかねばならない、という切迫感がまるでなかった。加納の一派はその名声に比例せず、なんの実体も持たないまま自然消滅した。

 その後、受け継いだ資産を食いつぶし、加納は完全無欠のフリーターになっていた。赤坂でナイトクラブを経営したというが、収支は赤字に決まっている。暴力団相手のトラブルには過去の実績が効果を発揮したらしい。恐れられていたというより、潰れるのが目にみえていたのだろう。

 加納は私を溺愛した。というより、私にまとわりついて離れなかった。理由はよくわからない。孫のように感じていたのかもしれない。

「いちいち文句言わないで下さい! うるさいんです。ジジィならジジィらしくおとなしくしててください!」

 加納とのやりとりを聞いていた第三者は、大抵ドン引きする。当時の舎弟連中が表面上、加納に平身低頭しているのに、私の口調がぞんざいだからだ。

「あの人……愚連隊の帝王だろ?」

「そうだけど」

「安藤昇の兄弟分なんだろ?」

「だからなに?」

 こっちは加納の生活を抱えているのだ。お客様扱いはできない。