新宿歌舞伎町の通称“ヤクザマンション”に事務所を構え、長年ヤクザと向き合ってきたからこそ書ける「暴力団の実像」とは―― 著作「潜入ルポ ヤクザの修羅場」(文春新書)から一部を抜粋する。

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愚連隊というファンタジー

 山口組からの強烈なクレーム以降、私の興味は愚連隊というジャンルに移っていた。暴力団を本格的に取材するようになったのは、入社後、1年以上経ってからだった。

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 愚連隊という存在は、戦後の一瞬だけ起こった全国的なムーブメントである。簡単に言えば組織に属していない与太者、チンピラ、不良のことだ。敗戦により既存の秩序がぶちこわされ、暴力社会にもこれらの人間を中心にした新勢力が台頭した。混乱時におきる一過性の感冒のようなもので、社会が落ち着きを取り戻すと次第に沈静化し、一部は既存のヤクザ組織に取り込まれ、大半は自然消滅し、いまに至る。

 愚連隊の魅力の一つは、すでに過去の話であるということだった。いまの暴力団社会にとっては遥か遠い昔話であり、その中の数人を賞賛したところで、なんら罪悪感を持たずに済む。実際、愚連隊のヒーローたちは社会悪と呼ぶには単純で、あどけなかった。暴力をファンタジーとして捉えるなら、これほどぴったりはまる題材はなかった。

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 愚連隊の全盛期、彼らが組織暴力の一部として社会問題となっていたことは知っている。しかし、時代はまだあちこちが荒っぽく、なによりやっていることが幼稚だった。そのうえ、当事者のほとんどが“若気の至り”と自嘲し、暴力は馬鹿らしいと回顧しているのだ。

 子母澤寛は「ヤクザの話しは、読んでおもしろければそれでいいのです」と語り、司馬遼太郎は、「一場一席の『俄(にわか)』(路上の即興喜劇)を感じてもらえば」と自著『俄』(小林佐兵衛という大阪のヤクザが主人公)に書いている。文壇の巨匠たちがこういうのだから、深く考える必要はないのかもしれない。しかし、実際に暴力団組織を取材していれば、そう簡単に割り切れなくなる。心の片隅に悪の片棒を担いでいるのではないか、という罪悪感が残る。

拳銃を目にすることもあった

 実際、ときには目の前に犯罪行為が存在する。

 とある組長の自宅で拳銃をみせてもらったときのことだ。組長は妻――業界用語でいえば姐さんの洋服ダンスから、ビニール袋を取り出した。袋の中にはたっぷりと機械油を差され、油紙に包まれたアメリカ製の回転式拳銃が入っていた。

「持ってみるか?」

「こんなところでまずいですよ。片付けてください!」

 私の横で、組長の子供たちが平然とテレビのアニメ番組を観ていた。すぐ横に銃器があるというのにまったく意に介さない子供たちに愕然とし、私は感覚が麻痺してしまわないよう心に誓った。