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明石家さんま65歳に 5億円の借金「さんまはオモロなくなった」30年前“最大のピンチ”とは

明石家さんま65歳に 5億円の借金「さんまはオモロなくなった」30年前“最大のピンチ”とは

2020/07/01
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“ひな壇”で視聴率20%連発 45歳の境地(2000~01年)

 離婚する直前、1992年4月には『さんまのSUPERからくりTV』(TBS系)、離婚後の1994年には『恋のから騒ぎ』、1997年には現在も続く『踊る!さんま御殿!!』(以上2本とも日本テレビ系)がスタートし、いずれも視聴率20%を超える人気番組となった。これらはさんまが進行役で大勢の出演者を相手にトークを回していく、いわゆるひな壇番組で、これ以降、この形式の番組が増える契機となった。そこへ45歳になる前年、1999年にはフジテレビで『明石家マンション物語』が始まる。これは前出の三宅恵介の企画で、当時ほとんどなくなっていたコント番組の復活をもくろんだものだった。さんまは1992年より自らのプロデュースで舞台『今回もコントだけ』を毎年1回開催していた。演出を手がけていた三宅はこれをテレビに持ってきたいと思ったという(※1)。こうして始まった『明石家マンション物語』からは「ダァメダァメ」「意味ないじゃ~ん」といった流行語も生まれた。

1992年の離婚会見。このとき額に『×』を記したことから“バツイチ”が流行語になった

 45歳になった2000年には、戦時中の中国を舞台とした芝居『七人ぐらいの兵士』にも主演する。前年に主演ドラマ『甘い生活。』で共演した生瀬勝久と、番組の打ち上げで、一緒に舞台をやろうと口約束したのがその発端だという。出演のほか脚本も手がけた生瀬は公演に際し、死生観をテーマにしていると語り、さんまについて次のように語った。

《さんまさんの死生観が特殊なんですよ。あるとき、さんまさんが“おれは90歳までしゃべり続ける。90歳でべらべらしゃべってるおじいさんは面白いだろう”と言ったんですね。“おれは死ぬ気がしない”と言うんです。そういうことが言えるのは自信なんでしょうけど、多分、死ぬかもしれないとは思ってるんですよ。でも、死ぬまで生きるという、生きる塊みたいな感じがして、えらい人やなあと思ったんです》(※6)

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2004年アテネ五輪で ©JMPA

 莫大な借金を抱え、「死ぬ」か「しゃべる」かの二択を迫られて後者を選んださんまは、しゃべりまくった末に、ある種の境地にたどり着いたのかもしれない。