少年たちのものだった構図を少女たちのものにした
私はこの「結婚しようと誘う美少年ローリーを、ジョーがもっと自由でいたいのだと拒否する」場面を見ながら、冒頭に挙げた『ピーター・パンとウェンディ』の一節を思い出していた。
一緒にネバーランドで冒険を経てきた物語のラスト。ウェンディは「やっぱりあなたのこと、本当は男の子として好きよ」と述べ、一緒に大人になろうと誘う。しかしピーター・パンはそれを拒否する。「僕は一生、誰にも縛られずに自由でいるよ」と。きみのことは好きだけど、女の子として好きなわけじゃないんだ、と言う。
しかし、このような構図は、従来、少年たちのものだった。
同い年の少年が「結婚しよう」と誘ってくるのに、「もっと自由でいたいの」と拒否する少女の話がいままであっただろうか?
私が見てきた限り、そのような話はほとんど見えない。あるいは、プロポーズに対して「自由でいたい」と男性を拒否する女性は、結局そうやって男性を惑わす小悪魔的な存在であって、むしろ性的には成熟しているものとして描かれてきた。
ピーター・パン症候群なんて名前もあるくらい「大人になりたくない」話は普遍的なのに、なぜかこの手の話で、少女が主人公になることはない。物語のなかでピーター・パンの立場に立つのは、いつだって少年のほうだったのである。少女は「少年より一足はやく大人になって、少年を誘う」立場だったのだ。
しかし今回映画でジョーとローリーの関係性の変化が丁寧に描かれてみて気づいたのだが、実は『若草物語』は、かなり稀な、「大人になりたくない」少女の話を描いていた。
みんな、大人になって家を出たりなんかせずに、ずっとここで遊んでいられたらいいじゃないか。男女の関係になんてなりたくない、私の好きはそういう好きじゃない。――シアーシャ・ローナン演じるジョーの切実な願いが語られる。
みんなが大人になって自分がひとりなのは寂しい、でも自由でいたいのも本当だ、とジョーは嘆く。このような嘆きは、実は多くの少女にとって普遍的なのに、それを口に出すことがゆるされていなかっただけではないか。なぜなら少女は「女性」としての役割を引き受けることを喜んでいるのだ、という社会的な抑圧がずっとあったからだ。