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76歳になった久米宏 ついに“レギュラー消滅”の胸中とは「テレビ局の“予算がない”は言い訳…」

76歳になった久米宏 ついに“レギュラー消滅”の胸中とは「テレビ局の“予算がない”は言い訳…」

「これでお別れっていうわけじゃありませんから」

2020/07/14
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肺結核、降板、電話番……不遇の20代

 それでもラジオは少年時代から好きで、思い入れがあった。その特別な思いがたたったのか、入社後、いざラジオのブースに入り、生放送で話そうとすると異常に緊張して、うまくしゃべれない。あげくに体調を崩し、神経性の胃腸炎と診断されてしまう。ようやく復帰して、当時若者に絶大な人気を誇った『パックインミュージック』金曜第1部(パーソナリティは野沢那智と白石冬美)のあとの第2部を任されるも、5週続けたところで今度は肺結核が見つかり、降板を余儀なくされる。治療して完治するまでは、アナウンス室で電話番をしながら、先輩や同僚のアナウンスを聴いた感想をレポートにして会社に提出する日々が続いた。不遇な時代ではあったが、70歳をすぎて《最近になってようやく、この時期があったからこそ今の自分があると思える》と著書に書いている(※2)。

1967年にTBSに入社した久米(1976年撮影) ©文藝春秋

 そんな久米にとって転機となったのが、1970年代前半、『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』で街に飛び出して中継するコーナーを担当したことだ。そこでは団地へ行って聴取率調査をしたり、歩道橋や電信柱などありふれたものについて実況してみせたりして、好評を博す。「隠しマイク作戦」と称して、潜入レポート的なことにも挑戦した。自衛隊の市ヶ谷駐屯地から中継したときには、地方から来た人を装って、ライフルを持った門衛に話しかけてみた。わざと訛った口調で、「その鉄砲、タマ込めてんのか」などと訊いているうちに警戒され、それでも決定的なことが起きるまでねばっていると、ついには門の奥から守衛たちが一斉に出てきたので、急いで逃げたという(※3)。

「番組つぶしの久米」から『ニュースステーション』へ

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 入社して5年ほどはラジオの仕事ばかりだったが、そのうちにテレビにも出始める。しかし何をやっても失敗続きで、アナウンス室では「玉砕の久米」「番組つぶしの久米」などと呼ばれていたとか。そんなころ、『土曜ワイド』の中継先で、たまたまテレビのロケに出ていた萩本欽一から呼ばれて「久米ちゃん、いま聴いてたよ、面白いね」と褒められた。この出会いが1975年、萩本出演のクイズ番組『ぴったし カン・カン』の司会者に起用される伏線となる。これを機にテレビでも知られるようになり、1978年には新たに始まった音楽番組『ザ・ベストテン』で、テレビ界の大先輩である黒柳徹子と司会を務めるにいたる。スタジオに来られない歌手のため各地から中継をつなぎながら生放送を進行する手腕は、ラジオ時代に培われたといっていいだろう。