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76歳になった久米宏 ついに“レギュラー消滅”の胸中とは「テレビ局の“予算がない”は言い訳…」

76歳になった久米宏 ついに“レギュラー消滅”の胸中とは「テレビ局の“予算がない”は言い訳…」

「これでお別れっていうわけじゃありませんから」

2020/07/14
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 同じく1978年には、『土曜ワイド』で永六輔から数えて3代目のパーソナリティとなり、1979年にTBSを退社してフリーに転じてからも、『ザ・ベストテン』と並行して続けた。だが、1985年春に他局を含めて大半のレギュラー番組から降板、世間を驚かせる。これは秘密裡に企画が進められ、同年10月に始まった『ニュースステーション』の準備のためだった。こうして久米は18年半におよび、同番組のメインキャスターを務めあげることになる。

 のちに本人が冗談めかして語ったところによれば、そもそも久米がテレビに出始めたのは、ラジオで取材に行っても相手が彼を知らないことが多かったので、知名度を上げるためだったという。《ラジオしかやってない時は、「そこそこテレビに出てりゃ、みんな名前を分かってくれる」程度のことしか考えてなかった。テレビ半分、ラジオ半分でいきゃいいんだみたいな考えだったんです。それがほとんどテレビになる、というのはまったくの誤算でした》と本人は述べている(※4)。『ニュースステーション』が始まる際にも、ほかのテレビ番組はやめても『土曜ワイド』は続けたかったが、その希望はかなわなかったという。

でも『ニュースステーション』よりもラジオのほうが……

『ニュースステーション』時代にも、ラジオへの思いを語ることはあった。1995年には、同番組でやりたいことはある程度やってしまったとして、《それより僕はラジオで新しいことをやりたいですね》と話していた(※5)。彼のなかでは以前より、ラジオの専門局をつくって、たとえば24時間ぶっ続けでニュースだけを放送するなどといった構想があったらしい。そう夢を語ったうえで、《やっぱり僕はラジオが好きなんですよ。ラジオのほうが人の心に相当深く入っていくでしょう。今、ラジオの通信販売がすごく売れているらしいんです。ラジオの言葉って受取り手にリアリティを与えているからだと思うんですよね》と打ち明けている(※5)。

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ニュースステーション(1987年撮影) ©文藝春秋

 テレビを介して相手にする人はラジオよりはるかに多く、久米がいくら視聴者目線に立っても、個人の心に入り込んでいくのは難しかっただろう。ひょっとすると久米のなかでは、『ニュースステーション』時代もテレビ界はむしろアウェイで、「テレビなんですけど」というような思いが常にどこかにあったのではないだろうか。