1ページ目から読む
4/5ページ目

コロナ以前から“8割おじさん”に注目していた

『ニュースステーション』をやめて始めた『ラジオなんですけど』は、久米にとってじつに21年ぶりのラジオ番組だった。ラジオへの復帰は、永六輔時代の『土曜ワイド』のプロデューサーとの約束だったという(※3)。番組が始まってしばらくは、毎週番組の冒頭でTBS社屋の近くの東京・赤坂界隈を歩きながら中継を行なっていた。第1回の中継では、赤坂に昔から住んでいるという女性と出会い、のちにスタジオにトークゲストとして招いたこともあったと記憶する。「今週のスポットライト」(かつて『ザ・ベストテン』で注目株の歌手を紹介していたコーナーと同じタイトル)と題するそのゲストコーナーには、著名人が出演することもあったが、それ以上に、さまざまな分野で活躍する知る人ぞ知る人物を招くことが多かった。昨年には、北海道大学の西浦博教授が出演し、理論疫学の専門家として、数理モデルを使っての感染症予防策についてわかりやすく説明していた。もちろん、出演時点では、翌年に新型コロナウイルスが世界的に流行しようとは誰も予想しておらず、彼も“8割おじさん”とは呼ばれてはいなかった。この回は、コロナ禍のさなかに再放送され、久米や番組スタッフの先見の明をあらためて感じさせた。

ダウンタウン松本人志との懐かしい一枚(1994年撮影) 

 時代を予見したといえば、『ラジオなんですけど』では2011年に、複数のリスナーが電話で番組に参加して、合唱したりラジオドラマを演ったりしたことがあった。この企画はさらにエスカレートし、ついにはパーソナリティからお天気キャスターまで番組のすべてをリスナーに演ってもらうところにまで発展した。コロナ禍のさなかには、テレビ・ラジオ番組の収録のみならず、演劇の配信までもが、タレントや俳優が自宅などからリモートで出演して行なわれたが、この企画もまたそうした状況を期せずして先取りしていたといえる。

『ラジオなんですけど』終了の理由とは?

 ラジオに復帰したばかりのころに久米が登場した記事をチェックしていたところ、興味深い発言を見つけた。それは、《今、自分でラジオ番組をやりながら一番驚いてるのは、ラジオとテレビの区別をしないで仕事をしていることです。僕は、ラジオとテレビって、昔はかなり区別をして仕事をしていた。でも今は、ほとんど区別してませんね》と語っていたことだ(※4)。テレビに長年出演し続けることで、話す仕事としては変わりがないという境地に達していたのかもしれない。それでも彼に一貫していたのは、プロとして仕事をまっとうしようという思いではなかったか。『ラジオなんですけど』の終了を今年6月に発表した際には、理由はいくつかあると断ったうえで、そのひとつとして、番組中に言い間違いなどケアレスミスが多くなり、集中力や根気も落ちてきたことをあげていた。

ADVERTISEMENT

 もっとも、これと似たような発言を、久米はやはり前出のラジオ復帰直後の記事でしていた。《『ニュースステーション』辞める時もそうだったんですが、ちゃんとした語彙が瞬間的に出てこなくなったというのがあるんですよ。……今も同じ症状なんですけど、「これだ」という言葉が瞬間的に出てこない。でもラジオの場合には、それをちょっと待ってくれるかな、という気もしてるんです》(※4)。結局この14年間、彼はずっと同じ悩みを抱きながら番組を続けてきたということなのではないだろうか。