1ページ目から読む
3/4ページ目

結婚したら、自分の性的身体の自由を手放さなければいけない?

 まさに「結婚したら最後、自分の性的身体の自由を手放さなければいけないなんて恐ろしいことを、私はする気になれません」というのは、結婚したら自由を手放さなければならないという思い込みや決めつけも含まれています。ま、夫として、妻として、夫婦になり親となったからには責任が付きまとうというのはありますけどね。

 結婚してなお奔放な性生活をする男女があるかもしれないし、私ら山本家のように子育て育児教育や親の介護に追われて日々を慌ただしく送っている家庭もあるかもしれない。そして、本当の意味で不倫しなければ性的欲求が捌けない、不自由に我慢ができないとなれば、それこそ夫婦で話し合い、乗り越えていけばいいんじゃないでしょうか。無理なら離婚すればいいだけの話で。お子さんがいらっしゃらなければ、身軽でしょう。

 そして、一度(ひとたび)子どもを授かれば、夫婦で四苦八苦して授乳したり、子育てをしていくプロセスを共有する中で性的肉体の自由とはまた違う共同作業が自由を超える希望を人生に与えてくれるものなのかなと思います。もちろん、子どもがいなかったとしても夫婦が進むことで拓ける道があるかもしれませんし、それは本当に夫婦それぞれの形じゃないかと思うんですよね。

ADVERTISEMENT

©山本一郎

母親に「あなたなんて産まなければよかった」と叫ばれて

 私事で言えば、私も実父がしばらく不倫をして自宅に帰らなくなり、不安で情緒不安定になって夜ごと泣く母と二人でしばらく暮らしたこともあります。そのころは、子どもながら「お父さんとお母さんは別れるのかな」とぼんやり思ったものですが、大人になって振り返ってみれば仕事や不倫で帰らない父を長く待つ母子の厳しさなんてのも負っていたのだな、と気づかされます。

 上野千鶴子さんの言説は、そういう面からすれば「性的な自由が拘束された家庭は結果として不幸なのだから、不倫も受容され得る社会にしたほうが良い」という価値観という意味でよく理解できます。

 しかしながら、長い人生で見返してみたとき、そういう家庭を顧みなかった父親、それでも離婚をすることなく最後まで夫婦関係を維持した母親は、結果として(東京にいる限り)毎日私に車椅子を押されて散歩をするのが日課の、穏やかな老境を迎えているわけですよ。そりゃ私からすれば、身勝手に不倫して離婚間近までいって破産までしかかったのに人生の最後は息子に面倒みられて帳尻合わせやがって、という気持ちもありますよ。幼少期の私の心にどんだけ傷を残したと思ってるねん。

©山本一郎

 でも、あのころは父親と母親しか、私にはいなかったんですよね。酔って帰って来た父親に殴られようが、精神的に不安定になった母親に「あなたなんて産まなければよかった」と叫ばれて傷つこうが、夫婦関係というものはそういう谷もあります。一方で、車で家族旅行をした楽しい記憶や頑張って受験してトップを取って父親に褒められて嬉しかった感情も色濃く残って、家庭というのはそういう感情の山も谷も乗り越えていまに至ることを親になってみて知ることになります。だからこそ、私は家族を持つものとして、わざわざ身一つの性的欲求から不倫に走って、家内を泣かせたり、子どもたちに不安な思いをさせたりしたくないという、人間の原罪に立ち返るのです。