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「真相糾明を歪ませた」韓国政府の欺瞞 現場を見た日本人が語る、歴史問題“利権化の理由”

「挺対協」“嫌韓”を作った組織の30年 #7

2020/07/20
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 挺対協(現・「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の不実について告発した元慰安婦李容洙(イ・ヨンス)氏の記者会見によって韓国社会は大揺れに揺れている。

 はたして挺対協とはいかなる組織なのか。彼女らの実態をよく知る日本人がいる。その女性の名前は臼杵敬子氏という。ライターとして女性問題に関心を深く持っていた臼杵氏は、半生を韓国太平洋戦争犠牲者遺族会を支援するための活動に費やした。90年代から議論が始まった日韓歴史問題を、最も間近で見つめてきた日本人の一人であるともいえよう。

 本連載では臼杵氏から見た、なぜ慰安婦問題が歪んでしまったのか、その真実について回想してもらう。そして挺対協とはどのような組織だったのかを、当事者として批評してもらおうと考えている。(連載7回目/#1から読む/前回から読む)

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「最高裁判所は最低裁判所だよ!」

 2004年11月29日、太平洋戦争犠牲者遺族会(以下・遺族会)が日本政府に対して〈戦後補償〉を求めた裁判、通称・東京裁判が終わりました。最高裁が原告の上告を棄却、遺族会側の敗訴が確定したのです。 

 東京には遺族会共同代表(当時)の梁順任(ヤン・スニム)氏や元慰安婦の沈美子(シム・ミジャ)氏らも駆けつけていました。みな呆然とした表情で上告棄却の報を受けました。 

 私たちは肩を落としながら最高裁判所の正門を出ました。 

「最高裁判所は最低裁判所だよ!」 

 憤懣やるかたない様子の梁氏は、ハイヒールを脱ぐと、門にある〈最高裁判所〉のプレートを何度も殴りつけていました。 

元従軍慰安婦らの敗訴確定 従軍慰安婦訴訟で原告敗訴が確定し、報告集会で発言する梁順任・太平洋戦争犠牲者遺族会会長(右)=2004年11月29日午前、東京・永田町の参院議員会館 ©共同通信社

 上告棄却という判断はある意味、門前払いと同じことです。覚悟をしていたものの、遺族会と私たちで共に歩んできたこの十数年が否定されたような気持ちになりとても辛い気持ちになりました。 

 帰り道、私の携帯は鳴りっぱなしでした。全て韓国メディアの取材電話でした。梁氏は日本の携帯電話を持っていなかったので、同行している私に電話をかけ梁氏のコメントを取ろうと記者達は電話をしてきていたのです。 

敗訴で“主戦場”が日本から韓国へと移った

 東京裁判の敗訴は一つの転換点となりました。 

 韓国内では日本では戦後補償問題は解決しないという雰囲気が醸成されていき、“主戦場”が日本から韓国へと移る大きなきっかけとなったからです。 

 2004年3月5日に韓国国会で「日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法(時限立法)」が制定されました。2004年11月10日には日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会(以下・真相糾明委員会)が発足します。 

 真相糾明委員会はソウル市内に大きな事務所を構え、100人近い職員を抱えた大組織でした。ところが問題はこの職員の大半が民族問題研究所(徴用工裁判の支援で知られる市民団体)出身の市民活動家や研究者で占められたことでした。遺族会の実被害者たちは職員として入ることが出来なかった。 

 遺族会は長い年月をかけ戦争被害者や遺族の名簿を作成していました。一人一人面談し調査票を作成するという地道な努力によって作られた、いわば血の滲んだ名簿です。梁氏に聞くと、真相糾明委員会によって遺族会はこの名簿を提出させられたというのです。