「法学部生向けの講義を再現するつもりで書きました。文中にある冗談もツッコミもそのままで(笑)。講義に出ている学生たちを挑発してやろうという意識がありますね。『あなたたちが必死こいて頭に叩き込んでいるその法律の条文、本当に正しいことなの?』と」
哲学だけでも頭が痛いのに、さらにその上に法という重々しい一字がつく。法にも哲学にも無縁の人生だからと、素通りするのは勿体ない。たとえば医療倫理、格差と平等、幸福の意義など、提示される法哲学が取り組む問題は、普通に生きる市井の人間にとっても決して縁のない話ではない。
「法哲学の根本には、疑うという態度があります。生きていれば誰でも思いますよね。『なんでこんなことをしなきゃいけないの』『こんなことになんの意味があるの』。こういう素朴な疑問を持つことが法哲学の契機だと考えています。この時期、暑くてジメジメしていて過ごしづらいですよね。それなのにビシッとネクタイを締めてスーツ姿で教壇に立つ先生がおられる。私はそれを変じゃないか、不合理じゃないかと思う。無理のある恰好で汗をかいてうんざりしたくない。だから、私は講義をする際はタンクトップ姿です。この方が、私にとっては合理的なんですね。
なんか変だぞおかしいぞという素朴な感覚は法哲学の第一歩。正義だ道徳だと難しいことばかり考えているイメージがあるかも知れませんが、必ずしもそうではないんです。正義はなくても地球は回ります。でも、『正義』が自分のアンテナに引っかからなくても、人間って『不正』には敏感なんですよ。あの人だけ得してるぞ、おかしいなあって。単純な不正の感覚がひいては正義の議論につながっていきます。法哲学って人間の機微に通じるところがありますね」
副題は「常識に盾突く思考のレッスン」。法律があるからこそ世の中がうまくまわっているという常識。売春や自殺は人間の尊厳を損なうから良くないという常識。揉めごとがあったら裁判所、治安の維持のためにお上があって警察があるという常識。我々が当たり前のように受け入れているありとあらゆる前提は、実は大いに「疑う」余地がある。
「コロナ禍の中で社会が直面した問題も法哲学的に検討されて然るべきでしょうね。未知の感染症だから、国家が率先して対応対策をリードしなければいけないという雰囲気。個人的な感想ですが、ずいぶん国家主義的な人が多いんだなあという印象です。今の社会制度だと国家のやるべきことがたくさんあるのは事実ですが、果たしてそれを盲信していていいのでしょうか。厚労省の規制なんてとっぱらって民間の製薬会社にどんどん競争させた方がワクチン製造への近道なんじゃないでしょうか」
考えることの大事さは、哲学なき身にもよくわかる。だが、両論併記は日和見と揶揄され、意見が拮抗しては何も決められず、前に進むことができなくなるとき、どうすればいいのだろうか。
「我々の社会が採用している民主主義には、意見の対立があるのは大前提ですし、多数派の意見がより尊重されるシステムです。政治は決断を強いられることもあるでしょう。ですがこれは、少数派の意見を黙殺するということではないはず。ハンス・ケルゼンという法学者は『少数意見を将来に残す』ということを言っています。私の言葉で言い換えるなら、『対立と葛藤を残し続けろ』。まさにこれが法哲学なんです。正解なんてどこにもないけれど、異論を含め考え続ける。本当は、政治にもこういう度量が必要なはずなんですけどね。もう一つ踏み込んで、民主主義って正しいの? と考え続けることも必要なんですよ」
すみよしまさみ/1961年、北海道生まれ。法哲学者。青山学院大学法学部教授。北海道大学大学院法学研究科博士後期課程修了。著書に『哄笑するエゴイスト』、共同執筆に『法の臨界〔Ⅱ〕』『ブリッジブック法哲学』など。