「プロのピアニストを目指すなら幼少期から習う必要がありますが、大人になってからピアノを学ぶ方が得るものは多いと思います。学習するための『芯』があるから、色々なものを吸収できる」
と語るのは暴力団社会に詳しいライターの鈴木智彦さん。本書は52歳にしてピアノを習い始め、発表会で初舞台を踏むまでの1年を綴った異色作だ。
「人によると思いますが、俺は校了後にハイになるんです。特に『サカナとヤクザ』は5年がかりで取材していたので尚更でした。興奮冷めやらぬまま、映画館で朝から晩までぶっ通しで観た映画のうちの1本が、ABBAのヒット曲で構成されたミュージカル映画『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』。心温まる物語ですが、この程度では普段の俺は感動しません。ところが『ダンシング・クイーン』が流れたとき、ふいに涙が溢れてきました。グリッサンドから始まるピアノの旋律が素晴らしくて、全身の毛穴から音楽が入り込むような恍惚感があった。そして雷に打たれたように、『ピアノでこの曲を弾きたい』と思ったんです。
中学時代にクラリネットを齧り、大学までロックを熱狂的に聴き、音楽には一家言あるつもりでしたが、まさかABBAで感動するとは――。思い返せば、小学生の頃からピアノを習っている女子が羨ましかった。尊敬する作家の溝口敦さんにも、『元々ピアノを弾きたいと思っていたのでしょう。素養と関心がないとできないことだよ』と言われました」
衝撃のABBA体験を経て、鈴木さんはすぐに腰を上げた。ピアノ教室に次々と電話を掛け、「『ダンシング・クイーン』が弾きたいんです」と単刀直入に訴えたが、成人男性を受け入れている教室は極めて少数。なんとか漕ぎつけた最初の体験レッスンで“運命の人”レイコ先生と出会った。