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 こういう人は、とにかく人間の心理いうものを分かっとった。それも博奕場での経験が生かされてるんちゃうやろか。

博奕の現場は人間心理が如実に表れる

 たとえば、博奕にタコはつきもんで、もちろん叱らんとあかんが、避けて通れんものやという割り切りもある。タコいうんは胴の人間が博奕場の金をチョロまかすことや。タコは腹減ったら自分の足食うやろ。盆中にある金は親分のもので、身内がそれを食うからタコ。タコ行くやつは病気や。はらはらドキドキしいもって、その刺激を味わいたい。タコいかんかったら翌朝腹痛おこしよんねん。

 合力なんぼやってもタコいく奴はタコ行きよるし、なにか事情があるやつもおる。人間は弱いんや。みな多かれ少なかれ行くんやから、あまりガミガミいうばかりではいかん。

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 厳しさと優しさ。これが親分の条件なんやと思うわ。

 でもな、そういう奴を親分はじっとみとる。中には釜揚げ(博奕を手伝ったものに支給される日当)は生活費、タコいった金は遊びに使うなんてしっかり分けてる奴もおるし、タコでええ車乗ってるもんもおるけど、内心、みんな分かってる。そのくらいの余裕なかったら、親方やっていけんわな。体張ってタコいってんのに、それを半分もってこい言う親分もおるしのう。

かっこいい博奕打ちとは道徳を身につけた人間のこと

 ようするに昔の賭場いうんは、道徳の上に博奕があった。マナーや気遣いは暗黙の了解やったし、だからこそ相手を思う武士の情けといった美学も生まれた。かっこええ博奕打ちいうんは、なにもようさん銭を張るいうのとちゃうねん。賭場の空気を吸い、そういう道徳を身につけた人のこっちゃ。やせ我慢して相手を立て、いいかっこやって、つき合いで方々の博奕行って、そこを立つように盛り上げ、今度は自分の賭場に来てもらう。その呼吸が見事なわけや。

 当時は「博徒は親分が若い衆を食わせ、テキ屋は子分が親分を食わせる」といわれ、こうした非合法の遊技場によって、親分、そして子分たちの生活が成り立っていた。非合法な客商売だから働いてはいても公言できず、博徒は自らを無職渡世と自称した。渡世人(博徒)と稼業人(テキ屋)はまったくの異業種だったが、いまは渡世人があらゆる産業に入り込み稼業を行い、名前だけの博徒ばかりになった。

潜入ルポ ヤクザの修羅場 (文春新書)

鈴木 智彦

文藝春秋

2011年2月17日 発売