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セーフティネットとしての発達障害診断や投薬

 周囲に理解されない特性があることで苦労している人はたくさんいるでしょう。そして特性のある子を育てる中で、周囲から散々非難された親はたくさんいるでしょう。

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 理想は、そのような特性が受け入れられる社会を作ることであり、そのような社会を実現するよう進んで行くことは大変重要です。しかし、苦しんでいる人にとっては将来ではなく今こそが重要なのだという現実があります。今を生き抜くことができなければ将来などないからです。

 そのような無理解な社会、あるいは多様性や共生へ向かう過渡期である社会に対する防衛手段として、発達障害という診断をもらうことで自分や家族を守っている人がいます。社会から不適応とされた自分を無理やりその社会に適応させるために、不本意であっても薬を飲み続ける人もいます。

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 これらの人々にとっては、発達障害診断や薬がある種のセーフティネットとして作用しています。そのようなギリギリで生きている人々に対して、診断や薬を頭ごなしに否定するつもりは毛頭ありません。

 しかし、本当は他に適切な手段があったはずなのに、安易な発達障害啓発キャンペーンによって唯一の道であるかのように診断と薬に誘導され、袋小路に追い詰められてしまったような人も中にはいます。その人を救ったと思われていたものが、それなしでは生きられない依存状態に追い込んでいたということです。

タブー化しつつある発達障害批判

 それは私の勝手な決めつけではありません。診断と薬が自分を縛り付けていたことに気付き、それを手放して他の手段を選ぶことで、まったくそれらを必要としない状態にまで回復した実例がいくつもあるからです。

 専門家に繫げることが必ずしも正しい診断や適切な支援に結び付くわけではない以上、発達障害という主題に対して、もっとさまざまな角度からの批判的検証があっても良いでしょう。専門家に対してもっと批判の目が向けられても良いでしょう。必ずしも診断を必要としない支援の在り方があっても良いでしょう。

 ところが、私たちは最初に一方的な「正しい理解」を求められています。早期に専門家に繫がり、早期に診断されることこそが最善だとする一方的な価値観を実質的に強要されています。それに疑義を唱えると、「差別」「無知」「無理解」「医療否定」などとレッテルを貼られ、攻撃対象にされてしまいます。もはや発達障害批判はタブーになりつつあり、何かがおかしいと思ってもうかつに口に出せない雰囲気もできあがっています。