6代目山口組から離脱し、対立関係が続いている「神戸山口組」で内紛が起きている。神戸山口組の中でも最大勢力の「山健組」が分裂の動きを見せているためだ。

 不穏な動きは7月上旬から情報が漏れだして表面化した。7月に入って山健組の最高幹部らが兵庫県内で断続的に会合を開いているという。

 神戸山口組は2015年8月、6代目山口組を離脱した山健組や宅見組など13組織で結成されたが、山健組はその中でも名実ともに中核組織。神戸山口組組長、井上邦雄の出身団体でもある。それだけに、今回の内紛が「神戸山口組の大幅な弱体化に繋がるのではないか」との憶測も飛び交っている。

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 山健組の動向次第では、神戸山口組の弱体化どころか存続が危ぶまれる事態を招く。2019年10月に6代目山口組若頭の高山清司が刑務所を出所以降、激化した対立抗争の行方にも大きな影響を及ぼすことになりそうだ。(全2回の1回目/後編に続く)

暴力団業界のブランド「山健組」

「山健組にあらずんば、山口組にあらず」

 そんな表現をされていた山健組は5代目山口組組長の渡辺芳則を輩出するなど、かつては組織内の最大派閥として権勢を誇り、現在の山口組を事実上支配する弘道会をしのぐ“保守本流”だった。当時は、山口組内だけでなく暴力団業界全体のトップブランドとも言えた。

 当時を知る指定暴力団幹部が振り返る。

「5代目のころは、まさに山健の時代。まさに『山健にあらずんば……』と言われたように大きな存在だった。当時から弘道会も大きな勢力だったが、5代目(組長の渡辺)が山健出身だったから、シノギ(資金獲得活動)が(山口組傘下組織の間で)ぶつかっても、全て山健に有利になるようになった」

 それほど権勢をふるった山健組とは、どんな組織なのか。

 そもそも山健組は、田岡一雄が3代目組長だった当時、山口組のナンバー2・若頭を務めた山本健一が創設した老舗組織だ。田岡と言えば、神戸の地方組織に過ぎなかった山口組を全国組織にしたカリスマ的な存在だ。

 山本は、その田岡後継の有力候補だったが、4代目を継ぐことが出来なかった。1981年7月に田岡が死去するのだが、その前から山本は病気で入退院を繰り返し、1982年2月に死去してしまったからだ。

 山健組から山口組組長が出るのは、4代目組長の竹中正久が「山一抗争」で射殺され、混乱後の「組長空席」という異常事態を経た後のこと。1989年7月、5代目山口組組長に山健組組長だった渡辺芳則が就くことになる。

山健組を率いた5代目山口組の渡辺芳則組長(左)。右は宅見勝若頭(1989年11月) ©️共同通信社

 集団指導体制のもと、山健組という最大派閥を率いて5代目に就いた渡辺。当時は日本中が好景気に沸いたバブル経済の真っただ中で、表経済の好調ぶりは裏社会である暴力団業界も潤し、地上げなどで巨額の利益を手にした「経済ヤクザ」という存在もクローズアップされた。こうして山口組の事実上の山健組支配が確立していた。