問題は、第一の保守主義と第二のフェミニズムが結びつきやすく、「女性解放」のために売買春に反対していたはずの女性運動がいつのまにか保守主義と妥協してセックスワーカーを抑圧する結果になるという歴史が繰り返し起きていることだ。都知事はフェミニズムの存在感がマスメディアで目立ち始めた今の風潮を利用していると考えられる。
フェミニズムは必ずしもセックスワークを否定しない
筆者はジェンダー論を専門とするフェミニストだが、セックスワークを廃止すべきだとは思わない。(新)廃止主義ではないフェミニズムの立場からセックスワークをどのように考えられるか説明したい。
まず(新)廃止主義は売買春を「女性差別」だとするが、これはおそらく女性差別意識を持った男性が貧しい女性を性の道具にするというイメージにもとづく批判だろう。
しかし性サービスを提供する女性が貧困であろうと、またサービスを買う男性が女性差別意識を持っていようと、それを理由にその女性の意志に基づいたセックスワークを否定できるのか? 問題なのは背景の貧困や差別であり、セックスワークの行為自体ではないはずだ。
セックスへの個人的な思いを普遍化していないか?
それでも否定するひとは、そもそも自由にセックスをすることへの否定意識があるのではないか、と自らに問うてほしい。愛し合っている、あるいは結婚している男女のセックスのみ認められるという思想や、何らかのポジティブな内容がセックスにはあるべきだという感覚である。
セックス観は人それぞれであり、そのように考える人がいても良いが、逆にそれを他人に押し付けることもできない。セックスを恋愛や結婚と別に行って良いという思想も認められるべきであるし、もちろんポジティブなセックスは良いだろうが、現実にはそうではないセックスも多い。大事なのは関わる者たちが納得できているか、また問題があったときにサポートを受けられるかということだろう。金が介在するからといって一律に禁止はできない。
それを否定するのは、フェミニズム的には「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」や結婚至上主義を意味している。前述の上野氏はセックスワークを否定し、「自分を粗末に扱わない男」とのセックスは「クオリティが高い」としたが、これもセックスへの個人的な思いを普遍化、規範化している。