さらに、同年12月には、やはり若頭補佐の桑田本人が東京・六本木の路上でボディーガードに拳銃を持たせていたとして、警視庁に銃刀法違反の現行犯で逮捕された。桑田はその後、2000年3月、東京地裁で懲役7年の実刑判決を言い渡され、控訴審を経て最高裁が上告を棄却。服役していたが、肝臓に持病があり2007年4月に67歳で死亡した。
10億円の保釈金を2度も払って保釈された司
滝沢は逃亡を続けたが、2001年7月に栃木県内で逮捕される。滝沢をめぐる裁判は1、2審で無罪となるなど紆余曲折を経るなかで病気を患い、2018年5月、大阪高裁で差し戻し控訴審判決が言い渡される予定だった日に滝沢は死去した。80歳だった。
司も1998年6月に逮捕、起訴されるが、1999年7月に10億円の保釈金で保釈。さらに2004年2月に大阪高裁で懲役6年の判決を受けたが、やはり10億円の保釈金で即日保釈され、上告した。
その時点で、その後の裁判は残っていたものの健康で、組内での統率力を維持していた山口組最高幹部は司だけになっていた。
警察幹部が、当時の山口組最高幹部の状況を振り返る。
「そもそも宅見もガンに侵されており、余命はさほど長くないとされていた。必要性がどこまであったかは不明だが、それでも中野会は殺害した。山健組の桑田もかなり重い肝臓病だった。そこで山健組を(現神戸山口組組長の)井上(邦雄)に譲り、間もなく死亡した。滝沢は銃刀法違反事件で、全国各地で逃亡生活をしていただけでなく、桑田同様に病気が重く、事実上、引退のようなものだった」
司は、2005年5月に5代目山口組若頭、同年7月に6代目山口組組長に就任することになる。
「当時の最高幹部たちの中で、司は比較的年齢が若く、何よりも体が健康だった。当時から筋トレを欠かさないとか、健康維持に気を使っていた。特に6代目に就任して以降は、酒の飲みすぎで健康に不安のある直参に対して引退を要望するなど、健康への自分なりの考えがあった。司が執行部入りしたころの有力な先輩たちが殺害されたり、病死したことも、司の6代目就任への道が開けたとも言える。運も大きかったのではないか」(同前)