6代目山口組が分裂し、神戸山口組が結成されてこの8月で5年となる。

 山口組の6代目体制は、組長の司忍、若頭の高山清司が、いずれも名古屋市に拠点がある「弘道会」出身であることが大きな特徴だ。内部抗争や分裂を経てきた歴史から、これまでの山口組では組長とナンバー2の若頭は別の組織から輩出する慣習があったからだ。この「異例の体制」は、5年前の分裂の原因の一つでもある。

山口組6代目の司忍組長 ©時事通信社

 この山口組のツートップを独占した強権体制の「名古屋支配」は、いかにして築き上げられたのか。そこでは、前例のない巧緻にたけた人事が行われていた。

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幹部の中では若手だった司忍

 そもそも6代目の「司・高山体制」が生まれたのには、どのような背景があったのか。

 当時は、5代目組長・渡辺芳則の組織運営が停滞していた時期を経た後で、まさに新体制の発足が望まれていたタイミングだった。

 1989年7月に継承式が開かれ5代目に就任した渡辺だったが、暴力団史上最悪とされ、死者25人が出た「山一抗争」(1985年1月~1987年2月)の混乱を引きずっていた時期でもあり、若頭の宅見勝らを中心に集団指導体制が取られた。

 当時の最高幹部は、若頭で宅見組組長の宅見が筆頭。そのほか、本部長にベテランの岸本組組長の岸本才三、若頭補佐として山健組組長の桑田兼吉、芳菱会会長の滝沢孝、そして弘道会会長の司忍らが名を連ねていた。

5代目山口組の渡辺芳則組長(左)と宅見勝若頭(1989年11月) ©共同通信社

 司は執行部入りこそしていたが、ほかの幹部は先輩格が多く、立場としては新入りの若手として迎え入れられていたのが実情だった。司は数人いた若頭補佐の中でも、若手の一人に過ぎなかったのだ。

 集団指導体制とはいえ、宅見は渡辺より5歳年上。組内では実質的に宅見の意向が重要視されるようになる。次第に渡辺と宅見の間で隙間風が吹くようになり、1997年8月、宅見は神戸市内で射殺される。事件を引き起こしたのは渡辺シンパの若頭補佐、中野太郎率いる中野会系の組員だった。

 宅見勝射殺事件の波紋は広がり、山口組はふたたび内部抗争を引き起こしていく。そして、混乱を収拾できない渡辺は孤立していった。