2005年8月に6代目山口組が発足してから今月で15年となる。6代目体制の歩みは、組長の司忍、若頭の高山清司の出身母体である「弘道会」による支配力強化の歴史だった。
この弘道会支配の強化は、6代目体制の司令塔である若頭、高山清司の采配によるところが大きいとされている。
組織運営にあたっては、組長と若頭のツートップを弘道会で占める独占体制が特徴的なだけでなく、有力な傘下団体の弱体化を進める「巧妙な人事術」が繰り広げられていた。
保守本流「山健組」をどう切り崩したのか?
5代目体制で、山口組の“保守本流”とされたのが「山健組」である。5代目組長の渡辺芳則の出身母体でもある山健組は、間違いなくブランドだった。
高山が狙いを定めたのは、この山健組の弱体化である。武闘派として知られる高山だが、使ったのは武力ではなく「人事」だった。
山口組では5代目体制当時、山健組には6000人以上、弘道会には4000人以上の組員が所属していたとされ、双方は山口組内の2大派閥とされていた。
司が6代目に就任する直前の2005年4月、すでに弘道会支配に向けた人事が定例会で発表されている。
2代目弘道会会長となっていた高山のほか、ともに山健組傘下の極心連合会会長の橋本弘文、太田会(当時)会長の太田守正について、山口組直系の「直参」へ昇格させたのだ。
この人事は形の上では、山健組傘下の3次団体から山口組本家の直系組長である直参に抜擢された栄転である。サラリーマン社会に例えるならば部長級から役員への昇進に相当する。
しかし、警察幹部は当時の人事の目的について指摘する。
「山口組では神格化されている3代目組長の田岡一雄の下で若頭を務めた山本健一が作ったブランド『山健組』の勢力を減少させることが目的だった。当時としては、順当な人事が行われたと思われていた。ただ、しかし、『直参』となって本家に抜擢されることは表向きは歓迎すべきだが、山健組傘下から出て、山健組と横並びとなる本家直系の組織になることを意味する。その後の推移をみても、弘道会の勢力拡大と、山健組本体の勢力減少に繋がる巧妙な人事だった」
こうした人事は高山の考案だと、この警察幹部は指摘する。
「当時は渡辺自身が機能不全に陥っていた。すでにこの頃には司が後継するのは既定路線だったので、6代目就任前から高山が考えていたのだろう。直参に上げればそれだけ上納金が増え、山健組の弱体化につながる。弘道会にとっては一挙両得だ」(同前)