祝事の記念品の一つである雑誌記事は、同時に全国へのお披露目にもなる。いちいち書状を回すより、手っ取り早く代替わりの事実を広められるのだ。実際、暴力団専門誌は彼らの広報誌である。業界新聞のような位置にあるといっていい。
自らを「反社会勢力」だとは思っていないヤクザたち
暴力団たちの不満を代弁するのもこうした雑誌の役目だ。現在、暴力団は反社会勢力と呼ばれるようになり、国家をあげてその弱体化・壊滅を目指した取り締まりが行われている。が、彼らは自らを反社会勢力とは思っていない。
「我々は悪だが必要悪だ。それにヤクザには一定のモラルとルールがある」
悪はすれども非道はせず――。
その思いはすべての暴力団に存在する。1991年、暴力団対策法が制定された時、その聴聞会にかなりの団体が出席し、「我々は暴力団ではない。任俠団体だ」と主張した。自分たちの意見が決して認められないと分かっていても、彼らはそう声を上げた。単なるポーズではない。本気なのだ。
事実、これまでの社会は暴力団という存在を内包したまま、彼らに一定の役割を与え、それなりに上手く機能させてきた。犯罪者たちの重石となり、反共運動の防波堤となり、バブル期には企業の先兵となって地上げという汚れ役を引き受けた。
反体制的とみられるのはご法度
暴力団は法の下の平等も適用されず、人権も与えられない。冤罪事件や強引な法解釈はかなりあって、社会に対する不満がたまっている。ただ、国家と喧嘩をしても決して勝てないことが分かっているから、暴力団たちは表だって体制への不満をぶちまけることがないのだ。取材で天敵である警察の悪口をいう幹部は多いが、「反体制ととられるようなことは絶対に書かないでくれ」と釘を刺される。取り締まりがこれ以上厳しくならないよう、ただひたすらに堪え忍ぶ。それがヤクザの生きる道なのだ。
体制には決して逆らわない暴力団であっても、あまりに理不尽で我慢がならない時がある。そのガス抜きを雑誌が担当する。暴力団がマスコミに出て、体制へのあからさまな不満をぶちまけるときは、よほどのことがあったと考えていい。
〈これは冤罪じゃないのか……〉
そう実感できるときも多い。