なぜここまでデタラメになったのか?
では、なぜ大本営発表はここまで比類なくデタラメになってしまったのか。その原因は4つ考えられる。
ひとつは、日本軍が組織的な不和対立を抱えていたこと。それは、陸軍と海軍の間だけではない。陸軍のなかでも参謀本部と陸軍省が対立し、参謀本部のなかでも作戦部と情報部が対立していた。
そのため全体の同意が取りづらく、大本営発表の内容も、決裁のハンコを貰うために、各部署に配慮した、微温的なものにならざるをえなかった。こうして被害の表現が、「甚大」から「相当」に変わり、最終的に「若干」に落ち着くこともあった。
原因のふたつめは、日本軍が情報を軽視し、現場からの色よい報告を「作戦の成功だ」と鵜呑みにしやすかったこと。
厳しい査定はしばしば、上司から「連合艦隊が4隻だというのに、それを3隻とする根拠があるのか」とハネられ、現場からも「俺が腹を切って証明する」と抗議された。これが数字が独り歩きする原因となった。
メディアと軍部の癒着こそ問題
以上のような問題点は、日本軍が勝ち進んでいるときは、表面化しにくかった。勝っているときは、発表内容に注文もつきにくいし、現場からの報告も比較的正確だったからだ。
だが、1942年後半より雲行きが怪しくなった。敗北は「玉砕」「転進」と言い換えられ、現場からの報告もパイロットの消耗と練度低下で、どんどん怪しくなっていった。この戦局の急激な悪化が、デタラメ化の3つめの原因として数えられる。
そして最後の4つめが、ほかならぬ軍部とメディアの一体化だった。大本営がいかに現実離れした発表をしても、メディアがそれを厳しく批判していれば、国民も騙されなかっただろう。軍の側も、メディアのチェックがあるとわかれば、あまりいい加減な数字を発表できなかったに違いない。
にもかかわらず、メディアがその機能を果たせなかった。ラジオは国の管理下にあったし、新聞や雑誌も各種の法令で厳しく規制され、またみずからの部数拡大のために、軍部と積極的に癒着した。
その様子は、軍の側にも、メディアの側にも、つぎのように証言されている。
「ある[大本営報道]部員は、夕方になると、ソワソワして、あるいは新聞社の、あるいは雑誌社の誘いに乗って料亭に繰り込み、ときにはこちらから誘いをかけているようにも見えた。新聞社の車を自分のもののように乗り回したりしていた」(高戸顕隆『海軍主計大尉の太平洋戦争』)
「だから海軍の場合は新聞社が逆に報道部を招待していた。わが社[現在の日経新聞]でも私の在任中、春秋二回、報道部長以下を柳橋の亀清楼だの、茅場町の其角だの、築地の錦水だのへ招待した。これを在京の各社が全部やるので報道部は宴会疲れをしていたようだ」(岡田聰『戦中・戦後』)
この最後の原因こそ、歴史の教訓という点でもっとも注目すべきだと筆者は考える。というのも、当局というものは古今東西、都合のいい発表をするものだからだ。メディアはその暴走を防ぐ役割があるのである。