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批判不足は事実上の垂れ流しでは?

 では、このような大本営発表の歴史は、現下の“コロナ報道”と、本当に似ているのだろうか。

 なるほど、当局の発表は批判されてはいる。感染者の数にしても、「検査数とセットで考えなければ意味がない」などとの指摘は珍しくない。そのため、現在の報道を大本営発表と直ちにイコールで結びつけるのは、あまりに単純といわざるをえない。

 とはいえ、現在では戦中にくらべて遥かに多チャンネル化しており、ただ「こういう意見もある」程度では十分な批判になりえないというのもまた事実。

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 そこで気になるのは、感染者数の発表よりも、政治家のアピール合戦だ。昨今、安倍首相がほとんど会見しなくなったこともあり、各知事の露出が甚だしくなっている。なかには、「東京アラート」や「イソジン吉村」のごとく、ただのアピール合戦になっているのではないかと疑わしいケースすらある。

東京都の小池百合子知事 ©︎時事通信社

 メディアは、このような政治家の会見を無批判に垂れ流してはいないか。生中継するにしても、その後、同じかそれ以上の分量やコストを使って、しっかり検証・批判しているだろうか。影響力の大きいテレビは、とりわけ重大な責任を負っている。もし十分な検証・批判が欠けているのならば、事実上の垂れ流しと変わらない。

 現に、知事の会見後、生活用品などが買いだめされ、市民生活が影響を受けているのである。これでは政治家の「言ったもの勝ち」「目立ったもの勝ち」だ。デタラメも言い放題では、大本営発表に限りなく近づいてしまう。

大阪府の吉村洋文知事 ©︎AFLO

なんでも「戦前だ」は「日本スゴイ」と大差なし

 今日の状況は以上のような意味で、大本営発表をめぐる状況に似ている部分もないではない。

 もっと「似ている」と断定して欲しいとの声もあるだろう。それでも奥歯に物が挟まったような言い方をするのは、真の意味で、歴史の教訓を活かすためである。

 筆者のように戦時下の歴史について調べていると、8月になるたび、「戦前に似ていませんか」と話を振られる。だが、安易な断定は、逆効果になりかねない。

「あれも戦前、これも戦前」と単純に認定することは、歴史にたいして不誠実であるし、健全な批判精神を鈍磨させるという点では、かえって有害ですらある。脊髄反射的なレッテル貼りは、「日本スゴイ」と大差ない。

写真はイメージ ©︎iStock.com

 そのため、大本営発表との比較についても、慎重にならざるをえないのである。さきに大本営発表デタラメ化の原因を4つ上げ、そのうち最後の1点のみで現在との比較を試みたのも、できるだけ類似と差異の両面に気づいてほしいからだった。

 それゆえ読者には、「これが戦前だ!」といわれて納得するだけではなく、ぜひ「これは戦前か、否か」と考える習慣を身につけてほしい。歴史の教訓という、いささか聞き飽きた言葉も、そのときはじめて意味があるものとなるだろう。

教養としての歴史問題

前川 一郎 ,倉橋 耕平 ,呉座 勇一 ,辻田 真佐憲 ,前川 一郎

東洋経済新報社

2020年8月7日 発売