62歳の頃の瀬島龍三 ©文藝春秋

 いまから10年前のきょう、2007(平成19)年9月4日、太平洋戦争中に大本営参謀を務め、戦後は経営者、政界ブレーンとして活躍した瀬島龍三が95歳で亡くなった。

 1911(明治44)年に富山県に生まれた瀬島は、陸軍大学校を卒業後、1939(昭和14)年より参謀本部作戦課に配属され、東京の大本営に勤務、太平洋戦争ではガダルカナル島撤収作戦など多くの作戦立案に関与した。終戦直前には関東軍参謀として満州(現在の中国東北部)に赴き、作戦主任、中佐で終戦を迎えた。その後56年までの11年間、シベリアに抑留され、帰国した翌57年、伊藤忠商事に入社する。それまで主に繊維を取り扱っていた伊藤忠だが、瀬島は、重工業に重点を置いた総合商社へと転換を進めた。のちには会長も務め、相談役、特別顧問を経て2000年に退社している。

シベリアから11年ぶりに帰国した瀬島龍三(右端) ©共同通信社

 政界ブレーンとしては、1981年に鈴木善幸内閣の行政管理庁長官だった中曽根康弘に請われて、第二次臨時行政調査会(第二臨調)の委員に就任。以後、翌82年に発足した中曽根内閣でも各種委員を務め、三公社(電電・専売・国鉄)の民営化など行財政改革で大きな役割を担った。

ADVERTISEMENT

 山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壹岐正は瀬島がモデルといわれる。当の瀬島も、講演などでは、作中で描かれた壹岐のシベリアでの過酷な収容所体験を、自らの体験と同一化して語っていたという。だが、他方で、関東軍参謀としてあたったソ連との停戦交渉の内容など、瀬島が語らなかったことも少なくないとの指摘もある(保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』文春文庫)。そもそも山崎豊子は、瀬島が壹岐のモデルという説を否定していた。『不毛地帯』における壹岐のエピソードはあくまで、複数の人物からの取材をもとにした作家の創造の産物だということに留意したい。

東京裁判で証言台に ©共同通信社