いまから70年前のきょう、1947(昭和22)年4月25日、前年11月に公布された日本国憲法のもとでは初めての衆議院総選挙が実施された。総選挙の前提となる衆院解散は前月31日、第一次吉田茂内閣のもとで行なわれる。これにともない、明治以来57年続いた帝国議会が幕を閉じた。解散と前後して、保守系の与党・自由党に対し、改革的保守をめざす民主党、進歩的保守の中道政党である国民協同党といった新党の結成があいつぐ。
総選挙の結果、自由党は131議席、民主党は124議席を獲得、それぞれ第二党、第三党となる。民主党から田中角栄と中曽根康弘(いずれものちの首相で当時28歳)が出馬し、初当選を果たしたのはこのときである。
さて、この総選挙で第一党に躍り出たのは、143議席を得た社会党だった。社会党書記長の西尾末広は、この結果を選挙区の大阪から東京駅に着いたときに伝えられ、思わず「えらいこっちゃあ」と叫んだ。一方、委員長の片山哲は、国民より今後の方途を託されたと受けとめ、その日のうちに「今後の政権は当然、第一党たる社会党中心の政権でなければならない」との声明を発表する。
とはいえ、社会党は議席数で絶対多数を占めるにはいたらず、自由党と民主党と三党鼎立状況にあった。連立工作にあたった西尾は、国民協同党(国協)を加えた四党連立内閣をめざすも難航する。この間、5月23日には、新憲法施行(同月3日)後初の国会で片山が圧倒的多数で首相に指名された。このころ日本の民主化を指導していた連合国最高司令官のマッカーサーは、クリスチャンである片山の首相就任を喜び、指名当日に面会を求めると「民主主義発展のためには援助を惜しまぬ」「日本はこれから、東洋のスイスたれ」と励ましたという(五百旗頭真『占領期 首相たちの新日本』読売新聞社)。冷戦の進行にともない、マッカーサーが日本に再軍備を求めるようになるのは、まだ先のことだった。
結局、連立協議から自由党が離脱したため、片山内閣は社会・民主・国協による三党連立で6月1日に組閣を完了する。同内閣はGHQ(連合国最高司令官総司令部)と国民の強い支持を背景に、経済再建のため炭鉱国家管理法などを成立させた。だが、しだいに社会党内の左右対立から政権運営に行き詰まり、発足から1年を待たず翌48年2月に総辞職にいたる。