「幼い娘たちはどんなに辛かっただろうか」
被告人が一切犯行状況を語らなかったので、真相は不明であるが、このご遺体の状況から、様々なことが想像される。加藤さんは、裁判員裁判の意見陳述で、その点について次のように述べた。
「3人のうち、最初に妻が殺されたようです。妻は、きっと被告人と戦ったと思います。日頃から、痴漢にも立ち向かうタイプで、『男の人にも負けない』と言っていましたし、その場に娘たちがいたのであれば、必死で娘たちを守ろうとしたと思います。私は妻が闘う姿を思い浮かべて辛くなります。その場に自分がいたら絶対に助けてあげられたのに、ということは常に思います」
「幼い娘たちはどんなに辛かっただろうか、怖かっただろうかと思います。もしかして、2人一緒にいて、どちらかが殺されるのを見ていたかもしれません。その時、娘たちはきっと『パパ助けて』と叫んだと思います。恐怖で声にできなかったとしても、心の中で叫んだことでしょう。私がそこにいたら助けられたのに、という思いは今でも消えません。なぜ、私はそこにいなかったのでしょうか。美咲、春花、パパが助けてあげられなくてごめん」
私は被害者参加弁護士として、ご遺体の写真は見ている。特に、小学生の姉妹がうつ伏せで重なり合って亡くなっている写真には、涙が止まらなかった。幼い姉妹は、手と手を取り合って犯人から逃げようとしたのだろうか。
しかし、この事件でも裁判員はご遺体の写真は見ていない。実際のご遺体の写真の部分だけイラスト化したものなどに代替されている。
どんどん「真相の解明」をしなくなっている
刑事裁判の判決に対しては、ほとんどの被害者が不満を抱く。被害者の痛みと比べ、量刑が軽すぎると感じるからである。人が亡くなった事件では、なおさらその気持ちが強い。それが司法への不信感へとつながっている。
その要素のひとつとして、「遺体の写真を見せない」ことは大きな比重を占めている。「裁判員がきちんとご遺体を見なかったから、どれほど酷い犯罪だったのか理解できなかったのではないか」という疑念が消えないからだ。さらに、「裁判員の負担軽減」という大義名分のもと、「裁判員から訴えられて責任を取らされたくない」という裁判所の保身が透けて見えるからだ。
今後も、裁判所の傾向は変わらないと思われる。変わらないどころか、どんどん「真相の解明」をしなくなっていると感じる。最近では、性犯罪の裁判員裁判で、「犯行態様が酷いので、裁判員の負担になる」という理由で、被害者が犯行状況を証言するのを止められるという信じがたいことも起きている。
今後、遺族が、ご遺体の写真を見せないという裁判所の訴訟指揮が違法だとして、国家賠償請求訴訟を起こす可能性はある。そうでもしないと、裁判員裁判はますます「裁判員のため」の裁判となり、「真相を明らかにする」ことから遠のくであろう。
裁判員から国家賠償請求訴訟を起こされて一斉に証拠制限を始めた裁判所は、遺族から国賠請求を受けたら対応を改めるのであろうか。