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「忍び」は悪党の「再利用」? 大名と「忍び」の関係を史実から紐解く

『戦国の忍び』より #2

2020/09/10

genre : ライフ, 歴史, 読書

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「アウトロー」を雇用する戦国大名たち

 悪党たちを雇用し、合戦に動員したり、敵を攪乱させようとした事例は、いくつも史料に登場する。時期は判然としないが、某所に出陣中の上杉謙信は、府中の御用商人蔵田五郎左衛門に書状を送り「然而、いわしたのさい藤(斎藤)子とり房丸あくたう(悪党)をあつ(集)め、いかんともぬす(盗)ミ取、此口へならす候ハヽ、市川・越中口へ可越由義定間、かたくはんをすゑ、さい藤かた(斎藤方)より人なとこ(越)し候とも、合申事有之間敷候、大かたに存知候ハヽ、無曲候」と指示している。謙信は、「いわした」(岩下か、新潟県魚沼市)の斎藤子とり房丸なる人物に悪党を集めさせ、自身の在陣しているところか、もしくは市川口(信濃口)、越中口に派遣し、盗賊などを含めた敵地での行動を命じていた。

 出羽国土佐林禅宗(大宝寺氏の重臣)は、越後阿賀北の国衆色部長真に宛てた書状において「吾等も先年術尽、寒河江口衆、究竟之士卒も憑之覚候、其さへ聊も不被成力、結句味方之弱無其曲事ニ候、御校量も可在之候、於庄中大浦江可成弓者、悪党風情可成頼事自他聞、家中之事ニ候間、失面目候」と記した(〈天正19年カ〉4月6日付)。

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 禅宗は、大宝寺方の軍勢は、自分が懸命に手を尽くしても、弱兵ばかりで頼みにならず、寒河江(さがえ)衆に支援を頼んでみたものの、その時も成果が出なかった。遂には、「悪党風情」にも協力を求めざるを得なくなり、まったく他国への聞こえも悪く、面目次第もないありさまだ、と慨嘆している。合戦を勝ち抜くために、社会に滞留していた「悪党風情」のアウトローをも雇用したことが、ここにもはっきりと示されている。

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「夜走」「夜盗」を求む

 また、次に掲げる武蔵国松山城(埼玉県東松山市)主上田憲定が、天正18年(1590)2月28日に発給した制札は、悪党雇用の状況を端的に物語っている。

  制札

 此度之於陣中、夜はし(走)り夜盗致□(もカ)のいか程も所用ニ候、おのこゝを立、すくやかなる者、中谷領ハ不及申、いつれの私領の者成共、領主ニきつかい(気遣い)なく陣中へき(来)たり可走廻候、ふち(扶持)ハ当座ニ可出置候、其上走廻候之者をハ、御大途(北条氏直)迄申立、自分之儀ハ一廉可令褒美候、又此儘奉公のそ(のぞ)みの者ハ、給分出置可引立候、此以前於当家中、科あるもの成共、又借銭・借米有之者共、此度之陣へきたり走廻ニ付てハ、相違有間敷候、陣へきたるものハ、河内守方より印形を取可来候、仍如件

  寅(天正18年) 

   2月28日  憲定(上田)(朱印)

 (宛所欠)

 豊臣秀吉の侵攻を目前にした北条氏は、全領国に防衛を指示していた。この時、武蔵松山城主上田憲定は、全領域に兵の募集をかけるべく、制札を掲げたのであった。そこでは、夜走・夜盗はいくらでも必要なので、集まるようにと呼びかけた。ただし、男気があって壮健な者に限ってではあるが。そして、我こそはと思う者は、自分の居住する領主に気遣いせず、ただちに陣中に参上し、奉公を開始せよと述べている。