全身の体表の中でも、「背中」は最もなじみの薄い部位と言える。
顔には目や鼻や口や耳がある。同じ体表でも胸には乳首、腹にはへそ、下腹部には生殖器がある。
しかし裏側の背中には何もない。かろうじて肛門が後ろ側にはあるが、その所属はお尻であって、背中の一部と考える人はいない。
そもそも背中は自分の体の一部でありながら、その全容を自分の目で見ることもできなければ、全域を手で触ることもできない。
でも、そんな背中が「俺だってお前の体の一部なんだ!」と主張することがある。「痛み」だ。それも激痛だ。
普段はおとなしい背中が訴える魂の叫びに、耳を傾けてみよう。
襲いかかった突然の激痛
都内に住む自営業者のOさん(55)は、ラン歴10年を超える市民ランナー。
年に1度のフルマラソンと、5~6回のハーフマラソン大会への出場を続けてきたが、今年は“コロナ禍”の影響で、一度も大会に出ていない。
「大会がないとモチベーションが保てない」
などと言い訳をして、春以降はほとんど練習もしなくなった。
そのため激太りを招き、正月は67~68㎏程度だった体重が、今では75㎏に手が届きそうな勢いだ。
さすがにマズいと思ったOさん。それまでMサイズだったランニングウエア一式をLサイズに買い替え、ついでに新しいシューズも購入した。
不思議なもので、装いを新調すると、しばらく「やる気」は持続する。
よりによって盛夏の8月上旬から練習を再開したので、最初は4㎞ほどしか走れなかったが、次第に5㎞、6㎞と距離を延ばしていった。
走るのはいつも午前中の仕事を終えた「昼食前」だ。
8月30日の正午過ぎ。都内はその日も30度を超える酷暑だったが、それでも多少の風があり、前日までよりはまだ走りやすそうな気配だった。
「うまく行けば10㎞走れるかも」
軽快に走り出したOさんだったが、その直後、彼の背中を突然の激痛が襲った。
「肩甲骨の下で、中央よりやや左側。ちょうど心臓の後ろあたりに本当に一瞬、雷が落ちたような激痛が走ったんです」
物事を大袈裟に表現する癖があるOさん。もちろん落雷を体に受けた経験などない。それでもその衝撃は相当なものだったようで、その場にしゃがみ込んでしまった。
痛みが走ったのは一瞬だったが、その後は震源地から左右に脇腹を回り込むように痛みが放散し、しばらくは呼吸もままならなかったという。
心筋梗塞かとも考えたが、脈に変化はない。どうやら筋肉の痛みのようだ。
しゃがんでいても暑いだけなので、Oさんは立ち上がり、敗残兵のように歩いて帰宅した。汗と、冷や汗と、涙と、色々な分泌物で、マスクはびっしょり濡れていた。