「類書のない本」を書くことでは人後に落ちないと自負する私も、本書の奇書ぶりは衝撃だった。著者の清田氏は、恋愛相談が専門の大学サークルを立ち上げ、半ばそのまま起業した男性。圧倒的に女性が多い相談者の悩みを聞くうち、独学でフェミニズムを学び、自身の成育歴や交際相手へのふるまいを反省してゆく。
本書がタイトルで訣別を告げる「俺たち」とは、社会の約束事において優位な立場を占め、無自覚にその特権に安住している「男たち」のことだ。「それが世の中だろ」と居直ることをやめ、自明視されてきた男女間の慣習に違和感を覚える人の声に、耳をすます。ここまでなら、むしろ昨今類書の多い作品だろう。
奇書と呼ぶのは、随所でフェミニズムの意義を熱く啓蒙する著者が、同時にその「終わり」を予告するかのように見える点だ。
たとえば著者はフェミニストに相応しく、夫婦別姓での結婚を希望し、そのためにパートナーとの事実婚を選ぼうとした。それに反発し阻止させたのは母親や妹、つまり女性だった。
あるいは著者のもとに、「許されないセクハラをした」との悩みを抱えた男性が相談に来る。罪責感に心を病み、長期の休学に陥ったというが、話を聞くと「部活の後輩を手助けしたとき、つきあえたらいいなと願った」だけのことだ。
もちろんこうした問いに応えうる、洗練されたフェミニズムの議論が存在することを、私は知らぬではない。しかし本書で著者が示す、男女とはまた“別の”対概念による思考が、それ以上に魅力的に映る事実は覆いえないと感じる。
著者は自己にはbeingとdoingの、二つの側面があるという。beingとしての自己は、ただ存在するだけでよく、前提なしにその価値を承認されるべきものだ。しかし我々はついdoing、「なにか有益な行いをすること」に自分や他人の価値があると思い込み、できない(と見なした)相手を劣位に置きたがる。
たとえば本書に、マンスプレイニングなる概念が登場する。一般的には「女を見下して説教しがちな男の驕り」を指す用語だ。しかし大学の研究者やそのワナビーの世界での、激しい“ウーマンスプレイニング”の存在を、私は経験上よく知っている。特に女性が女性に対して振るう場合が、最も陰惨で苛烈だ。
説教したがるのは男女を問わず、doingへの強迫観念に憑かれた人だろう。彼ら・彼女らはしばしばハラスメントの加害者だが、反面ではbeingのみで尊厳を得ることを許されなかった被害者なのかもしれない。
誰もがbeingを傷つけられない社会でこそ、ジェンダーを含めたあらゆる差別は消える。「男女差」から問いを見つけた思想が、いつか自身を不要にする答えへと至る日にフェミニズムの真の栄光が来ることを、本書は言外に示している。
きよたたかゆき/1980年、東京都生まれ。文筆家、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。早稲田大学第一文学部卒業。著書に『よかれと思ってやったのに――男たちの「失敗学」入門』など。
よなはじゅん/1979年、神奈川県生まれ。歴史学者。著書に『中国化する日本』『荒れ野の六十年』『知性は死なない』など。