スコットランド軍には感謝していたが......
続いてスコットランドである。ここでも「王殺し」は許すまじき行為であった。そもそもチャールズの連なるステュアート家は、1371年以来、スコットランドが戴く王家である。それをスコットランド側に何の相談もなしに処刑してしまうとは言語道断であった。国王処刑のわずか5日後、1649年2月5日にスコットランド議会は長子チャールズを「グレート・ブリテン、フランス、アイルランドの王チャールズ二世」と宣言した。
クロムウェルの側は、かつて「第一次内乱(1642~46年)」の際にともに連携を結んで国王軍を打ち破ってくれたスコットランド軍には感謝していたし、スコットランドが「同君連合(1603年3月)」以前の状態に戻り、自らの王としてチャールズ皇太子を推戴するのであればあえて異論を唱えようとは思わなかった。ところが「グレート・ブリテン及びアイルランドの王」ともなれば話は別だ。
アイルランド遠征から戻って間もなかったにもかかわらず、1650年6月にクロムウェルは新型軍の総司令官に任命された。このとき彼は配下らに延々1時間にもわたってスコットランド遠征の意義を演説したが、ここで彼が引用したのが旧約聖書の『詩篇』第110篇だった。それは数々の外敵からの脅威を打ち破り、古代イスラエル王国の統一を成し遂げたダビデの歌だった。
複合国家統一への野心
「主はあなたの右におられて、その怒りの日に王たちを打ち破られる。主はもろもろの国のなかでさばきを行い、しかばねをもって満たし、広い地を治める首領たちを打ち破られる」。
「王殺し」を果たし、共和政を成立させた直後のクロムウェルは士師ギデオンを志していたが、いまや彼は古代イスラエルと同じように、グレート・ブリテンならびにアイルランドというこの複合国家の統一を、ダビデ王のごとく成し遂げようとの野心を抱いていたのかもしれない。
こうしてクロムウェルは翌7月に1万6000の兵を引き連れてスコットランドへと侵攻を開始した。食糧不足や傷病兵の増加で一時は弱体化したクロムウェル軍ではあったが、9月3日のダンバー(首都エディンバラ東方)の戦いで一定の勝利をつかみ、イングランド議会にさらなる増援軍を要請し、翌51年9月にはスコットランド軍を率いていた「チャールズ二世」はついに大陸へと亡命してしまう。スコットランドも屈服させたクロムウェルだったが、アイルランドとは異なり、同じくプロテスタントが主流のスコットランドには、宗教的な寛容と土地保有もそのまま認めるという穏健な政策を採った。